礼拝説教から 2020年8月16日

  • 聖書箇所:ローマ人への手紙4章9-12節
  • 説教題:恵みの証印、めぐみのしるし

 彼は、割礼を受けていないときに信仰によって義と認められたことの証印として、割礼というしるしを受けたのです。それは、彼が、割礼を受けないままで信じるすべての人の父となり、彼らも義と認められるためであり、また、単に割礼を受けているだけではなく、私たちの父アブラハムが割礼を受けていなかったときの信仰の足跡にしたがって歩む者たちにとって、割礼の父となるためでした。(ローマ人への手紙4章11-12節)

0.はじめに

 今日の本文であるローマ人への手紙4章9-12節では、割礼が話題になっています。

 割礼というのは、男性の性器の皮を切り裂くことです。旧約聖書の時代、ユダヤ人の男性たちは、神様の言葉である律法の教えに従って、生まれて八日目に割礼を受けました。割礼は、自分たちが神様の民であることを示すしるしでした。反対の側から見ると、割礼は、神様がご自分の民と結ばれた契約のしるしとして、命じられたものでした。

 割礼というのは、現在の日本で暮らす私たちにとっては、あまり馴染みのないものだと思います。ちょっと聞きかじったことのある人ならば、「何て野蛮なことをするんだ」と思うかも知れません。聖書を通して、アブラハムやユダヤ人たちの割礼を知っているクリスチャンたちにしても、現在の自分たちとは関係がないと考えるかも知れません。

 実際に、現在の私たちが割礼を受けることはありません。しかし、その代わりに、洗礼を受けます。そして、私たちの受ける洗礼は、契約のしるしという点で、割礼とつながっています。割礼は古い契約のしるしであり、洗礼は新しい契約のしるしだということです。

 今日は、ローマ人への手紙4章9-12節から、主に割礼と洗礼について見ていきながら、神様の御声に耳を傾けていくことができればと思います。

1.割礼というしるし

 パウロは、神様から義と認められる幸いが、「割礼のある者にだけ与えられるのか、割礼のない者にも与えられるのか」と問いかけています。そして、「アブラハムには、その信仰が義と認められた」という聖書の言葉を改めて引用しながら、アブラハムの信仰が義と認められたのは、「割礼を受けてからか、割礼を受けていない時か」と問いかけています。パウロの答えは、割礼を受けていない時です。アブラハムは、割礼を受けてからではなくて、まだ割礼を受けていない時に、信仰によって義と認められたのだということです。最初の質問に戻れば、神様から義と認められる幸いは、割礼と関わりなく、信仰によって与えられるということになるでしょう。

 しかし、そうすると、どういうことになるでしょうか。アブラハムが、信仰によって義と認められたのであれば、アブラハムが後に受けた割礼には、何の意味があるのでしょうか。割礼と関わりなく、信仰によって義と認められるのであれば、信仰によって救われるのであれば、割礼を受けることには、大きな意味がないようにも思われます。しかし、そうであるにもかかわらず、アブラハムは、神様の命令に従って、割礼を受けました。

 パウロは、アブラハムが信仰によって義と認められた後に割礼を受けたことについて、二つの言葉で説明しています。一つ目は、割礼が「信仰によって義と認められたことの証印」だということです。二つ目は、割礼が「しるし」だということです。割礼は、「信仰によって義と認められたことの証印」として受けるものであり、同時に、「しるし」だということです。そして、それは、私たちの洗礼においても、そのまま当てはまることです。

 「証印」という言葉と「しるし」という言葉は似ていますが、わざわざ別の言葉が使われているということは、意味が違うということになりそうです。順番は逆になりますが、しるしから見ていきます。

 しるしというのは、何かを指し示すものです。そして、割礼や洗礼の場合、指し示しているのは、行いと関わりなく、信仰によって、神様から義と認められる恵みです。罪人の私たちが信仰によって受け取るために、イエス様が十字架の死と復活によって備えてくださった恵みです。

 しるしというのは、何かを指し示すものです。指し示されるものそのものではありません。国道一号線を走っていて、「大津10キロ」という標識があっても、その標識は大津ではないわけです。10キロ先が大津であることを指し示しているということです。そして、ユダヤ人たちが間違ったのは、割礼というしるしと、割礼によって指し示されているものを混同してしまったということです。割礼というのは、あくまでも、罪人である私たちのために、神様が与えてくださった恵みの全体を指し示すものです。行いによってではなく、信仰によって、神様から義と認められる恵みの全体を指し示すものです。しかし、ユダヤ人たちは、その割礼によって指し示されている神様の恵みを、割礼という行いによって受け取ることができると誤解してしまったということです。割礼があれば、神様から義と認められる、救われると誤解してしまったということです。そして、その代わりに、本当に必要だった信仰が抜け落ちてしまったということになるでしょう。

 大切なことは、何でしょうか。それは、しるしそのものではありません。しるしによって指し示されているものを見つめることです。そして、それは、イエス様が罪人である私たちを愛するが故に、十字架にかかって、罪の赦しの道を開いてくださった恵みを見つめることです。イエス様が私たちに約束していてくださる恵みのすべてを見つめることです。そして、その恵みを信じて受け取ることです。イエス様を信じて義と認められて、洗礼を受けることです。

 私たちの礼拝に集われている方が、一人ももれることなく、イエス様を信じて洗礼を受けることができることを、心から願います。そして、イエス様が約束してくださっている恵みのすべてを見つめながら、イエス様と共に歩むことができることを、心から願います。

2.信仰によって義と認められたことの証印

 「証印」というのは、証明のために捺された印ということです。例えば、仕事や旅行で海外に行く時、私たちは出入国の審査を受けることになります。そして、その審査で認められた時に捺されるのが証印です。その証印があれば、出国が許可された、入国が許可されたことを確認できるということです。その許可は信頼できるということです。

 そして、アブラハムが割礼を受けたのは、その証印としてだということです。アブラハムが信仰によって神様から義と認められていることは、割礼によって、証明されているということです。その証明は、信頼できるものであり、決して無効にされることがないということです。アブラハムが義と認められたことは、神様ご自身が最後まで保証していてくださるということです。

 そして、その証印という意味において、ユダヤ人たちの割礼や現在の私たちの洗礼は、極めて重要なものであり、なくてはならないものでしょう。なぜなら、アブラハムにしろ、現在の私たちにしろ、神様から義と認められたことを証明したり保証したりすることは、神様ご自身にしかできないからです。アブラハムも、私たちも、神様から義と認められたことを、救いを、自分で証明したり保証したりすることはできないということです。

 神様ご自身の証印があれば、私たちは、自分が、神様から義と認められていることを、救われていることを、簡単に証明できるでしょう。そして、安心できるでしょう。

 しかし、証印がなければ、私たちは、どのようにして、自分が、神様から義と認められていることを、救われていることを、証明できるのでしょうか。保っていくことができるのでしょうか。それは、「行いによって」、「神様から信仰によって義と認められた者に相応しい行いによって」としか言うことができないでしょう。しかし、その行いによっては、私たちは、自分が、神様から義と認められていること、救われていることを、証明することも、保つこともできないということです。

 現在は、新型コロナウィルスの影響によって控えていますが、私たちの教会では、毎月第一週目に聖餐式を執り行っています。

 私たちは、聖餐のパンと杯を通して、イエス様の砕かれた体と流された血によって、救われて養われている恵みを、信仰によって、全身で受け取っています。信仰がなければ、聖餐のパンと杯は、ただの物に過ぎないでしょう。私たちは、イエス様を救い主として信じ受け入れるからこそ、イエス様の命令の通りに、聖餐式を執り行うのであり、そこに神様の働きがあるわけです。そして、だからこそ、その聖餐の恵みに与ることができるのは、洗礼を受けた人に限られています。洗礼を受けた人だけが、聖餐に与ることができるようになっています。しかし、すべての教会が聖餐に与る条件を受洗者に限定しているわけではありません。

 かつて、私がお世話になったことのある教会では、聖餐に与ることができるのは、洗礼を受けた人ではなく、信仰のある人ということになっていました。まだ洗礼を受けていなくても、今日、イエス様を信じたなら、パンと杯を受け取りなさいということです。神様から義と認められることが、救われることが、洗礼によるのではなくて、信仰によるのであるなら、それは何もおかしくないことであると言えるのかも知れません。

 しかし、そうすると、どのようなことが起こってくるのでしょうか。それは、月によって、パンと杯を受け取ったり受け取らなかったりする人が出てくるということです。「先月は、確かに、礼拝の説教を聞いて、信じて、パンと杯を受け取った、でも、今月は受け取らなかった」という人が出てくるわけです。一週間や一ヶ月を振り返って、「良い生活ができた、信仰もしっかりしている、今回は受け取ってもいいだろう」、あるいは、「聖書なんて一節も読まなかった、妻とケンカばかりしていた、自分には資格がない」というようなことを、判断しているということです。そして、それは、自分の信仰が、パンと杯を受け取るに相応しいものであるかを、自分で判断しているということです。そして、自分で判断する信仰によって、パンと杯を受け取るかどうかが左右されるのであれば、そのような信仰によって義と認められることも、「ちょっとどうか」ということになるのかも知れません。

 アブラハムは、割礼を受けたことによってではなくて、信仰によって、神様から義と認められました。私たちも、洗礼を受けることによってではなくて、信仰によって、神様から義と認められます。大切なのは信仰です。

 しかし、その私たちの信仰というのは不安定なものです。朝には固く信じていたようであっても、夜になると、不安になったり、疑ったりします。「教会で起こった問題につまずいて、ずっと教会から離れてしまって、最早、自分が信じているなんて、とても言えない」というようなことが、普通に起こってくるのではないでしょうか。

 確かに、信仰は大切です。しかし、神様から義と認められることが、救われることが、不安定な私たちの信仰によって左右されるのなら、私たちはいつまでたっても、安心することができなくなるでしょう。そして、だからこそと言えるでしょうか。神様は、アブラハムに割礼を命じられ、現在の私たちに洗礼を命じていてくださいます。割礼や洗礼を、私たちが信仰によって神様から義と認められたことの証印としてくださいました。信仰によって救われていることの証印としてくださいました。

 肉に刻まれた割礼の跡と同じように、洗礼も決して消えるものではありません。決して無効になるものではありません。私たちが信仰によって義と認められたことは決して無効にならないことを、私たちは自分の受けた洗礼によって何度でも確認することができます。たとえ、神様から見捨てられてしまったかのように思われる状況に陥っても、救いを失ってしまったのではないかという不安に襲われることがあるとしても、自分が洗礼を受けた者であることを覚える時、私たちは自分の救いを確信することができるということです。神様は、私たちの不安定な信仰とその行いを見てではなくて、ご自身の証印を見て、洗礼というしるしによって指し示されるご自身の恵みの業を見て、私たちが義と認められたことを、私たちの救いを、最後まで保証しつつ完成へと導いていてくださるということです。

 私たちの信仰生活には様々なことが起こります。そして、私たちの信仰は揺さぶられます。しかし、その不安定な信仰によって義と認められた私たちの救いは決して無効にならないことを覚えたいと思います。神様ご自身が保証していてくださることを覚えたいと思います。そして、だからこそ、洗礼を受けた者として、信仰を持って歩みたいと思います。洗礼によって指し示されている恵みのすべてを見つめて期待しながら、歩みたいと思います。

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