礼拝説教から 2020年8月9日

  • 聖書箇所:ローマ人への手紙4章1-8節
  • 説教題:不敬虔な者を義と認める方を信じる

 働く者にとっては、報酬は恵みによるものではなく、当然支払われるべきものと見なされます。しかし、働きがない人であっても、不敬虔な者を義と認める方を信じる人には、その信仰が義と認められます。(ローマ人への手紙4章4-5節)

0.はじめに

 聖書は、「すべての人が罪の下にある」ということを語ります。私たちは、全員が罪人だということです。

 私たちの人生には、どのような問題があるでしょうか。お金でしょうか。健康でしょうか。人との関係でしょうか。様々な問題があるでしょう。しかし、聖書が語っているのは、私たちの罪こそが、私たちの根本的な問題だということです。そして、その罪というのは神様を拒んで生きることであり、神様との関係がおかしくなっている所から、私たちが様々な問題を経験しているということです。

 しかし、聖書は、同時に、その罪人である私たちに、イエス・キリストを信じることによって、神様から義と認められる道が開かれていることを語っています。私たちは、神様の言葉である律法を行うことによってではなくて、何か善い行いを積むことによってでもなくて、ただイエス様を信じることによって、神様から義と認められるということです。神様に対する罪が赦されて、神様との関係の中で新しく生きることができるということです。

 しかし、旧約聖書の時代から、神様の民として生きてきたユダヤ人たちにとっては、パウロの教えは、なかなか納得することができなかったようです。神様に選ばれて、神様の言葉である律法を受け取って、その律法に従って、割礼を受けてきたユダヤ人たちにとっては、ただイエス様を信じるだけで十分だというパウロの教えは、あってはならないものでした。そして、それは、イエス様を救い主として信じ受け入れたユダヤ人たちも、大きく違わないようです。

 ローマ人への手紙4章にはアブラハムという人が登場します。アブラハムというのは、ユダヤ人たちにとって、偉大なご先祖様です。しかし、パウロによれば、このアブラハムこそ、行いとは関係なく、まさに信仰によってのみ、義と認められた人だということです。

 今日は、その4章の前半部分を通して、アブラハムの信仰を見ながら、信仰によって義と認められるという福音の言葉に耳を傾けていきたいと思います。

1.

 パウロは、ユダヤ人たちの偉大なご先祖様であるアブラハムが何を見出したのかについて、問いかけています。具体的には、アブラハムが行いによって義と認められたのかどうかという問題です。そして、パウロの結論は、アブラハムが行いによって義と認められたのではないということです。その根拠を、パウロは旧約聖書の言葉を引用して説明しています。「アブラハムは神を信じた。それで、それが彼の義と認められた」。アブラハムは、神様を信じたのであり、その信仰が神様から義と認められたのだということです。

 それでは、そのアブラハムの信仰というのは、どのようなものなのでしょうか。

 アブラハムは、神様の呼びかけを受けて、行き先も分からないままに、神様に導かれて故郷を出発した時、神様から一つの約束を受け取りました。それは、アブラハムが祝福の源になるという約束でした。アブラハムとその子孫を通して、世界中の人々が神様の祝福を受け取るという約束でした。

 しかし、その後、何年経っても、アブラハムには子どもが与えられませんでした。自分とその子孫が祝福の源になるどころか、たった一人の子どもすら与えられなかったのです。すでにアブラハム自身も妻のサラも年を取っていました。神様の約束は実現しないかのようでした。

 そして、そのような状況の中で、アブラハムは人間的な解決の道を模索します。それは、自分の家の僕を跡取りに迎えることでした。アブラハムは、子どもを諦めて、家の僕を跡取りに迎えて、その僕を通して、神様の約束が実現することを望んだということです。

 しかし、そのアブラハムに、神様は、満点の星空を見せて、「あなたの子孫は、このようになる」と言われました。神様は、アブラハムに必ず子どもが与えられて、その子孫が数えられないほどに大きな民になることを、改めて約束されたということです。アブラハムは、その神様を信じたのであり、その信仰が神様から義と認められたということです。

 どうでしょうか。もしかしたら、アブラハムが神様を信じたのは、私たちの目には、ものすごいことのように見えるかも知れません。「アブラハムも妻のサラもかなり年を取っている、人間的な常識では二人の間に子どもができるなんて絶対にあり得ない、そうであるにもかかわらず、『あなたの子孫は、このようになる』という神様の言葉を素直に受け取ったアブラハムの信仰は素晴らしい」と思えるかも知れません。アブラハムの信仰は、まさに神様から義と認められるに相応しいものだと思えるかも知れません。

 しかし、どうなのでしょうか。アブラハムの信仰というのは、それほどに素晴らしいものなのでしょうか。その信仰が素晴らしかったから、アブラハムは義と認められたということになるのでしょうか。次の4-5節を見る時、パウロの考えは違うように思います。

 パウロは報酬について語っています。働く人が報酬を受け取るのは当然のことだということです。なぜなら、報酬というのは、働きに応じて受け取るべきものだからです。そして、もし、働きのない人が何かを受け取るのだとすれば、それは報酬ではなくて、プレゼントだということになるでしょう。一方的な恵みとして与えられるプレゼントだということになるでしょう。そして、アブラハムは、まさにその「働きがない人」だったのであり、アブラハムが神様から義と認められたのは、行いに対する報酬ではなくて、決して与えられるはずのない報酬を、恵みとして受け取ったのだということです。

 パウロは、「働きがない人」であるアブラハムのことを、「不敬虔な者を義と認める方を信じる人」と言い換えています。パウロによれば、「働きがない人」であるアブラハムは、「不敬虔な者」であり、同時に、「不敬虔な者を義と認める方を信じる人」ということになります。

 不敬虔という言葉は、パウロが神様の怒りについて触れた所で出てきました。パウロは、「不義によって真理を阻んでいる人々のあらゆる不敬虔と不義に対して、神の怒りが天から啓示されている」と言っていました。不敬虔というのは、神様を信じていないということです。神様を神様として崇めていないということです。だからこそ、神様の怒りを買っているということです。そして、その不敬虔な者がアブラハムに他ならないということです。しかし、神様は、その不敬虔なアブラハムを義と認められたということです。神様は、アブラハムの信仰が立派だったから、アブラハムを義と認められたのではなくて、アブラハムが不敬虔だったにもかかわらず、アブラハムを義と認められたのだということです。そして、アブラハムが信じたのは、そんな神様だということです。アブラハムは、不敬虔な者であるにもかかわらず、神様の御心にかなった善い行いをすることができない者であるにもかかわらず、神様の怒りを買うような者であるにもかかわらず、そんな自分を義と認めてくださる神様を信じたということです。

 アブラハムの信仰が神様から義と認められたというのは、どういうことでしょうか。それは、アブラハムが、神様から義と認められるに相応しい信仰を、まず示したということではありません。アブラハムが、立派な信仰を示して、その信仰が神様から義と認められたということではありません。そうではなくて、何よりもまず、不敬虔な者を義と認めてくださる神様の恵みが先にあったということです。アブラハムの信仰の前に、不敬虔な者を義と認めてくださる神様の恵みが、先にあったということです。アブラハムは、不敬虔な者であるにもかかわらず、そんな自分を辛抱強く導いていてくださり、義と認めてくださる神様の恵みを、受け取ったに過ぎないということです。しかし、それがアブラハムの信仰だということです。神様から義と認められた信仰だということです。アブラハムは、とても信じることのできないような神様の言葉をそのまま信じて、その立派な信仰に対する報酬として、神様から義と認められたのではなくて、自分が不敬虔な者であることを認め、しかし、その不敬虔な自分を、神様が義としてくださる方であることを信じたということです。

 もし、神様の義が私たちの立派な信仰に対して与えられるものであるなら、それは恵みではありません。報酬です。立派な信仰の行いに対する報酬です。あるいは、ユダヤ人たちは、偉大なご先祖様であるアブラハムが義と認められたのは、まさにその立派な信仰の行いに対する報酬とでも理解していたということになるのかも知れません。

 信仰というのは、必ず行いを伴うものです。信仰があるからこそ、私たちは、神様の御心を求めるのであり、神様の御心に従って、決断し行動しようとします。それは、クリスチャンであるならば、信仰者であるならば、ごく自然なことです。そして、大切なことです。

 しかし、その信仰の決断や行いによって、神様から義と認められるのではないということを、私たちは決して忘れてはならないでしょう。それは、最初から最後まで同じです。最初に信仰を持った時から、信仰生活を終える時まで、決して変わることがありません。私たちは、信仰による決断や行いのあるなしによって、義と認められたり、認められた義が取り消しになったりすることはないわけです。そうではなくて、何よりもまず、いつも、不敬虔な者を義と認めてくださる神様の恵みがあるのであり、私たちはその神様の恵みによって支えられているのだということです。大切なことは、自分もまた、その不敬虔な者であることを認め続けることであり、神様がその不敬虔な自分を義と認めてくださる方であることを覚え続けることであり、その神様の恵みを空っぽの手で受け取り続けることです。逆に言うと、自分が不敬虔な者であることを認めることができないならば、「信仰による義」が分からなくなって、立派な信仰の行いによって義と認められようとすることになるのかも知れません。そして、それは、見た目には立派な信仰生活であるとしても、実際にやっていることは、パウロに敵対していたユダヤ人たちとそれほど違いがないということです。口では「信仰による義」と言っていても、実際には「信仰の決断や行いによる義」を求めているに過ぎないということです。

 私たちはどうでしょうか。アブラハムのように、あるいは、次のダビデのように、自分もまた不敬虔な者であることを認めているでしょうか。そして、その不敬虔な自分を、神様が義と認めてくださる方であることを信じているでしょうか。その神様の恵みを受け取りながら、神様だけを誇りとしているでしょうか。あるいは、自分が不敬虔な者であることを忘れて、口では「信仰、信仰」と言いながら、信仰による決断や行いによって義と認められようとしていることはないでしょうか。そして、人間的な行いに目を奪われて、神様から目をそらしてしまっているようなことはないでしょうか。

 毎週日曜日の礼拝の中で、血による宥めのささげ物として公に示されたイエス様を、見上げたいと思います。自分もまた、イエス様の血を要求した不敬虔な者であることを覚えたいと思います。パウロやアブラハムやダビデと何も変わらない罪人であることを覚えたいと思います。しかし、その不敬虔な自分を愛するが故に、罪人の自分を愛するが故に、血による宥めのささげ物として、十字架にかかってくださったイエス様を、自分の救い主として信じ受け入れ続けたいと思います。信仰もない、行いもない、そんな自分を義と認めてくださる神様の恵みを、空っぽの手で受け取り続けたいと思います。そして、ただイエス様だけを誇りとして、どのような行いからも自由にされて、新しく生きる者とされることを願います。

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