礼拝説教から 2020年8月2日

  • 聖書箇所:ローマ人への手紙3章21-31節
  • 説教題:神様の義が明らかにされるために

 神はこの方を、信仰によって受けるべき、血による宥めのささげ物として公に示されました。ご自分の義を明らかにされるためです。神は忍耐をもって、これまで犯されてきた罪を見逃してこられたのです。すなわち、ご自分が義であり、イエスを信じる者を義と認める方であることを示すため、今この時に、ご自分の義を明らかにされたのです。(ローマ人への手紙3章25-26節)

1.神様の義

 神様は、ご自分の御子であるイエス様を、「血によるなだめのささげ物として公に示されました」。具体的には、イエス様が十字架にかかられたということです。十字架の上で血を流して死なれたということです。その十字架の上で血を流して死なれたイエス様のことが、「血による宥めのささげ物」と表現されているということです。そして、イエス様が血による宥めのささげ物として公に示されたのは、神様がご自分の義を明らかにされるためだということです。神様はご自分の義を明らかにされるために、イエス様を血による宥めのささげ物として公に示されたのだということです。

 その前の所では、神様の義は、イエス様を信じるすべての人に与えられるものと説明されていました。強調されていたのは、神様の義がイエス様を信じるすべての人に与えられるということでした。私たちは、どのような者であろうと、イエス様を信じることによって、神様から義と認められるということでした。正しいと認められるということでした。

 しかし、25-26節で問題とされているのは、神様の義そのものです。そもそも、神様は義なる方なのか、正しい方なのかという問題です。

 どうしてでしょうか。なぜなら、神様が、善い行いによってではなくて、ただ信じるだけで、罪人の私たちを義と認める方であるならば、それは、神様が罪を見逃しておられるということになるのであり、罪を見逃しておられる神様が義なる方ではあり得ないということになってしまうからです。ただ信じるだけの罪人を義と認めるような神様は、罪について、見て見ぬ振りをしておられるのであり、決して正しい方とは言えないということです。

 確かに、神様ご自身が義なる方でないならば、その神様から私たちが義と認められた所で、そこには何の意味もないのでしょう。神様から義と認められたとしても、その神様の義に問題があるならば、私たちの義は土台から揺らいでしまうことになるでしょう。

 しかし、その神様の義を、パウロははっきりと主張しているということです。パウロは、神様が正しい方だと言い切っているということです。神様は、ご自分の義、ご自分の正しさを明らかにするために、イエス様を血による宥めのささげ物として公に示されたのだということです。隠れた所でではなく、極秘にではなく、一般公開をして、イエス様を十字架にかけられたということです。そして、私たちの罪に対する決着を付けられたのだということです。ご自分が罪を見逃しているのではなくて、罪を裁く正しい方であることを示されたということです。そして、神様ご自身が正しい方であるからこそ、その神様から罪人の私たちが正しいと認められることには意味があるのだということです。

 私たちが生きていくにあたって、正しいと言えるものがあるというのは、とても大切なことではないでしょうか。もちろん、時や場合によって、何が正しいかということは、異なってくるでしょう。しかし、正しいということそのものがなければ、それは大変なことです。正しいということ、その反対に、正しくないということそのものがなければ、私たちの社会は混乱してしまうでしょう。あるいは、最初から社会が成り立たないと言ってもいいのかも知れません。

 今年は、新型コロナウィルスの登場によって、世界中がかつてない経験をしています。正体不明のウィルスから守られるために、世界中が様々な模索をしています。

 日本でも、感染防止の観点から、経済を守るという観点から、あるいは、他の様々な観点から、毎日のように意見や提案が出されています。その意見や提案は、実に様々です。私たちは、いったいどの意見が正しいのか、誰の提案を基準や根拠にして行動をすればいいのか、はっきりとしたことが分からない状況です。はっきりと分かるのは、「何が正しいのかを誰も分かっていない」ということだけではないでしょうか。まさに全員が暗闇の中を手探りで進んでいるような感じです。私たちは、もしかしたら、新型コロナウィルスから、正しいと言えるものがあることの大切さを、改めて教えられているのではないかということを思ったりします。

 私たちは、この世界を見れば見るほどに、何が正しいのか、分からなくなってしまいます。「これだけは正しいと確信していたのに、そうじゃなかった」というようなことを、何度となく経験します。あるいは、そのように裏切られることが嫌で、最初から何も信用しないということもあるかも知れません。

 しかし、そのような私たちに、聖書は、神様が義なる方、正しい方だと語りかけています。何が正しいのかさえも分からない私たちに、聖書は、神様こそが正しい方なのだと語りかけています。私たちが、信頼することのできる方として、安心して依り頼むことのできる方として、神様のことが語られています。そして、だからこそ、神様の義、神様の正しさを語る聖書は、私たちにとって福音だということです。良い知らせだということです。

 新型コロナウィルスを取り巻く状況は、どんどん難しくなっています。そして、その中で、神様は、一人のコメンテーターとして、相応しい意見や提案をしてくださるわけではありません。しかし、唯一の正しい方として、私たちを導いていてくださいます。新型コロナウィルスの問題を越えて、私たちの人生そのものの土台となっていてくださいます。

 難しい状況は続きますが、義なる神様、正しい神様に支えられ導かれながら、安心して歩んでいきたいと思います。

2.血による宥めのささげ物

 神様は、ご自分の義を明らかにするために、ご自分の御子であるイエス様を、宥めのささげものとして公に示されました。

 宥めるというのは、相手の怒りや不満を和らげるということです。気持ちを穏やかにしてもらうということです。

 私たちは、誰かを宥めなければならないようなことが、あるでしょうか。職場の上司の怒りを買ってしまって、夫や妻を怒らせてしまって、お客さんを怒らせてしまって、宥めなければならないようなことが、あるでしょうか。あるいは、誰かの代わりに、「まあまあ」と言って、宥めなければならないようないことが、あるでしょうか。

 また、宥めるために、どんなことをするでしょうか。ひたすら謝り続けるでしょうか。土下座でもするでしょうか。何か贈り物でも用意するでしょうか。あるいは、どんなことをしても、宥めることのできないような間違いを犯してしまったことはあるでしょうか。

 イエス様は、血による宥めのささげ物として、十字架にかかられました。

 どういうことでしょうか。それは、神様の怒りが宥められるためには、ご自分の御子であるイエス様の命が必要だったということです。しかし、それは、御子であるイエス様が、父なる神様の激しい怒りを買われたということではありません。そうではなくて、神様は、私たちの罪に対して、激しい怒りを持たれたのであり、その怒りを宥めるために、イエス様が、私たちの代わりに、十字架にかかられたということです。神様は、私たちの罪に対する怒りのために、私たちに罪の償いを要求されたのではなくて、御子であるイエス様の命を要求されたということです。

 どういうことでしょうか。それは、私たちには、どんなことをしても、神様の怒りを宥めることができないということではないでしょうか。どんなに良い行いをしても、どれだけのささげ物をしても、たとえ命をささげても、神様の怒りを宥めることはできないということではないでしょうか。そして、それほどに、私たちの罪は深いということではないでしょうか。神様を拒み、神様から離れて、自分中心に生きる私たちたちの罪は、私たちのどのような行いによっても、私たちの命によっても、決して償うことができないほどに、深いということではないでしょうか。しかし、その深い罪に対する神様の怒りが宥められるために、イエス様が十字架にかかってくださったということです。そして、それは、イエス様が私たちを愛してくださったからです。私たちが、神様から赦されて、神様の方を向いて、神様と共に新しく生きるためです。

 私たちは、日々の生活の中で、罪を犯すことはあるでしょうか。何の罪も犯さないということは、ないのではないでしょうか。もちろん、法律にひっかかるような罪は犯さないかも知れません。しかし、言葉で誰かを傷つけたり、心の中で悪口を言ったり、誰かを赦すことができなかったりすることは、よくあるのではないでしょうか。多くの場合、私たちが日常生活の中で犯す罪は、それほど深刻なものではないように見えるかも知れません。

 しかし、今日の本文の中で、パウロが語っていることは、何でしょうか。それは、私たちの罪がイエス様の命を要求したということです。私たちの罪に対する神様の怒りが宥められるためには、イエス様の血が必要だったということです。イエス様の命が必要だったということです。それほどに、私たちの罪は深いものだということです。そして、その罪の深さには、違いがないということです。「確かに自分は罪人やけど、あの人よりはまし」というようなものではないということです。大きな事件を起こして捕まった人も、品行方正に生きている人も、神様の前では同じ罪人なのであり、その罪はイエス様の命を要求するほどに深いものだということです。

 パウロは、別の手紙の中で、自分のことを「罪人のかしら」と言っています。自分こそが罪人の中の罪人だということでしょうか。確かに、パウロは新しく誕生した教会を迫害していました。実に激しい迫害を加えていました。そのパウロが、自分のことを「罪人のかしら」と表現するのは、納得することができます。

 しかし、そうすると、どういうことになるでしょうか。パウロが「罪人のかしら」であるなら、ナンバー1の罪人であるなら、私たちはナンバー2以下の罪人になるのでしょうか。罪人には違いないけれども、パウロよりは罪が軽いということになるのでしょうか。決してそういうことではないでしょう。今日の本文の中で、パウロ本人が語っているのは、パウロも、私たちも、同じ罪人だということです。イエス様の命を要求する同じ罪人だということです。

 イエス様を救い主として信じるということの中には、自分の罪を認める、自分が罪人であることを認めるということが含まれます。そして、その罪には、重い軽いの違いがありません。「確かに、私は自分が罪人であることを認めます、でも、あの人よりはましです」と言えるようなものではないということです。イエス様を信じるというのは、そして、自分が罪人であることを認めるというのは、自分が罪人の頭であることを認めるということです。自分こそが罪人の頭であることを認めるということです。イエス様の命を要求する罪人であることを認めるということです。

 私たちはどうでしょうか。自分の罪を認めているでしょうか。認めてはいるけれども、他人との比較の中で、重い軽いを考えているということはないでしょうか。

 今日の礼拝に集まった一人一人が、また、様々な事情の中で来ることのできなかった一人一人が、自分の罪を告白することができることを、心から願います。自分こそ罪人の頭であることを告白することができることを、心から願います。そして、その罪が赦されるために十字架にかかってくださったイエス様を、救い主として信じて、神様から義と認められて、新しく生きることができることを心から願います。神様から愛されて、神様を信頼して、神様との正しい関係の中に生きることができることを心から願います。

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