礼拝説教から 2020年7月26日

 しかし今や、律法とは関わりなく、律法と預言者たちの書によって証しされて、神の義が示されました。すなわち、イエス・キリストを信じることによって、信じるすべての人に与えられる神の義です。そこに差別はありません。(ローマ人への手紙3章21-22節)

 それでは、私たちの誇りはどこにあるのでしょうか。それは取り除かれました。どのような種類の律法によってでしょうか。行いの律法でしょうか。いいえ、信仰の律法によってです。(ローマ人への手紙3章27節)

0.はじめに

 先週は、ローマ人への手紙3章9-20節を本文として、「すべての人が罪の下にある」ということを分かち合いました。

 罪というのは、私たちが神様を拒み、神様から離れて、自分中心に生きることです。教会なんて初めて来たという人であれば、「それのどこが悪いんだ」ということになるかも知れません。しかし、その神様に対する根本的な罪が、人と人との関係にも影響を及ぼしているということになると、受け取り方が違ってくるかも知れません。

 先週の本文では、私たちの言葉に欺きや毒があり、私たちの言葉が呪いと苦みに満ちていると指摘されていました。そして、そんな私たちの歩む道には平和がないということでした。神様は、私たちが互いに愛し合って生きることを願っておられますが、その神様を拒む私たちは、神様の御心とは反対に、互いに傷つけ合って生きているということです。私たちは、神様に対する根本的な罪の下で、自分自身のことについて、互いの関係について、問題を抱えることになったということです。そして、その罪の下にあるのは、「ごく一部の人」ではなくて、「すべての人」だということです。

 今日の本文であるローマ人への手紙3章21-31節には、その罪の下にある私たちに向けて、神様の側から差し出された救いの手について語られています。

 聖霊によって、心開かれて、神様の御声に耳を傾けていくことができればと思います。

1.

 パウロは、神様の義が示されたと言っています。神様の義というのは、神様の正しさということです。神様は正しい方だということです。しかし、その神様の義は、ただ単に、神様が正しい方だというだけのことではありません。罪人である私たちに与えられるものでもあるということです。それは、私たちが、神様から罪を赦されて、神様との正しい関係の中に生きる者にされるということです。そして、その神様の義が示されたのは、律法と関わりがないということです。

 律法と関わりがないというのは、その前の内容を踏まえるならば、律法を行うことと関わりがないと理解することができるでしょう。パウロは、その直前の所で、「人はだれも、律法を行うことによっては神の前に義と認められない」、「律法を通して生じるのは罪の意識」と言っています。律法を行うことによって、神様から義と認めてもらうことは、誰にもできないのであり、その反対に、気づかされるのは自分の罪だということです。しかし、その律法を行うことと関わりなくということです。私たちが律法を行うか否かと関係なく、神様の義が示されたということです。

 もしかしたら、律法を行うと言うと、何か大層な感じがするかも知れません。律法を行うというのは、現在の私たちの感覚で言うと、要するに、何か善い行いをするということも含まれてきていいのだと思います。神様からも人からも認めてもらえそうな善い行いを積むことです。

 しかし、そのような善い行いをすることと、神様から義と認められることは、何の関係もないということです。そして、それは、逆に言うと、神様が私たちをありのままに受け入れていてくださるということを意味しています。私たちは、良い人間にならなければ神様の前に出られないということではなくて、ありのままの姿で神様の前に出ることができるということです。神様は、罪人のままの私たちを受け入れていてくださるということです。犯罪者であろうと、意地悪であろうと、他人に迷惑ばかりかける者であろうと、関係ないということです。なぜなら、神様が見ておられるのは、私たちの行いではないからです。神様が見ておられるのは、イエス様の贖いの業だということです。イエス様の贖いの故に、私たちは、善い行いと関係なく、一方的に与えられる恵みとして、神様から義と認められるということです。

 それでは、贖いというのは何でしょうか。それは、イエス様が私たちの代わりに十字架にかかってくださったということです。本来なら罪の罰を受けるべき私たちの代わりに、何の罪もないイエス様が十字架の罰を受けてくださって、私たちの罪が赦される道を開いてくださったということです。そして、大切なことは、そのイエス様を信じることです。十字架のイエス様の前で、自分の罪に気づかされ、その自分の罪が赦されるために、十字架にかかってくださったイエス様を、キリストとして、救い主として信じて受け入れることです。ありのままの姿で、イエス様の前に出て、自分の罪を告白し、イエス様の赦しをいただくことです。そして、その私たちを、神様は義と認めてくださいます。ご自分との正しい関係の中に招き入れてくださり、新しく出発をさせてくださいます。

 私たちはどのような者でしょうか。どのような者であるにしろ、イエス様は、決して私たちを拒むことなく、受け入れてくださいます。

 今日の礼拝に集まった私たちが、一人ももれることなく、イエス様を信じることができることを、心から願います。ありのままの姿で、イエス様の前に出て、罪の解決をいただいて、新しく出発することができることを、心から願います。

2.

 パウロは、「私たちの誇りはどこにあるのでしょうか」と問いかけています。パウロはどうしてこのような問いかけをしているのでしょうか。それは、「律法を行うことによって義と認められないのなら、ただ信じることしかできないのなら、自分たちには何も誇るべき所がなくなってしまうじゃないか」ということになるからではないでしょうか。もしかしたら、律法をちゃんと行っていると思い込んでいたユダヤ人たちが、自分たちの行いを誇るために、自分たちの誇りを守るために、反論をしていたのかも知れません。

 パウロは、自分たちの誇りが信仰の律法によって取り除かれたと言っています。信仰の律法というのは、欄外注を参考にすれば、信仰の原理、信仰の法則というような意味になりそうです。要するに、イエス様を信じることによってということになるでしょうか。つまり、イエス様を信じる時、私たちの誇りは取り除かれてしまうということです。イエス様を信じるというのは、私たちのあらゆる誇りが取り除かれることだということです。

 誇りというのは、プライドということですが、私たちが生きていくにあたって、とても大切なものです。なぜなら、誇りというのは、自分を支えるものだからです。私たちは、誇りがあってこそ、自信を持って生きることができるのであり、困難の中でも、前に進んで行く力が沸き上がってくるわけです。そして、その誇りを形作るのが、行いということになるでしょう。私たちは何かを行うことによって、何かを成し遂げることによって、誇りを持つことができるのだということです。逆に言うと、私たちは、何もできなければ、何も成し遂げるものがないならば、誇りを持つことができなくなる、あるいは、持っていた誇りを失ってしまうということです。プライドがズタズタに引き裂かれてしまうということです。そして、それは、私たちの人生においては、危機的なことだと言えるのかも知れません。

 しかし、今日の本文の中で、パウロが言っていることは何でしょうか。それは、イエス様を信じる時、私たちの誇りが取り除かれるということです。イエス様を信じるというのは、自分の行いによって形作られた誇りが取り除かれることだということです。逆に言うと、イエス様を信じていると言いながら、自分の中にある何かを誇り、その誇りによって立っているとすれば、その信仰には何か問題があるということになるでしょう。あるいは、イエス様を信じることもまた、行いの一つになっていると言ってもいいのかも知れません。

 イエス様を信じるというのは、具体的な行いを伴うものです。例えば、イエス様を信じるなら、毎週日曜日の礼拝に参加をするでしょう。聖書を読んだり、お祈りをしたり、献金をしたり、証しをしたりもするでしょう。あるいは、誰かを赦すということがあったり、陰口を言わなくなったりするということもあるでしょうか。これらはすべて行いです。イエス様を信じることは、具体的な行いが伴うということです。そして、だからこそと言えるでしょうか。私たちは、イエス様を信じることにおいてすらも、信仰生活の具体的な行いによって、自分を誇ることがあるということです。「家族からものすごい迫害を受ける中でも礼拝を守った」、「苦しい経済状況の中でもちゃんと献金をしてきた」、「聖書をどれだけ読んでいる、どれだけ祈っている」、実に様々な行いが、自分を支える誇りになっていることがあるということです。逆に言うと、そのような行いがなければ、「自分は駄目なクリスチャンなんだ」ということにもなってしまうわけです。私たちは、イエス様を信じることにおいてすらも、行いによって、信仰が強いとか弱いとかと言いながら、自分を誇ったり、誰かを見下したりすることがあるということです。

 繰り返しになりますが、イエス様を信じるというのは、自分を支える一切の誇りが取り除かれていくことです。私たちのプライドがズタズタに引き裂かれていくことです。しかし、その私たちをイエス様が支えていてくださるのであり、そのイエス様の支えを受け取り続けていくのが、イエス様を信じるということに他なりません。そして、だからこそ、私たちは、最初から最後まで、自分の信仰を誇ることなどできないということです。イエス様に支えられているだけの自分を誇ることはできないということです。

 ちなみに、22節で、「イエス・キリストを信じることによって」と訳されている部分は、直訳では「イエス・キリストの信仰によって」ということになります。「イエス・キリストを信じることによって」と言うと、「私たちが信じる」、「私たちの信仰」という感じがします。私たちの信仰が、神様から義と認められることを左右しているかのような感じがします。しかし、素直な直訳では、「イエス・キリストの信仰によって」になるということです。聖書協会共同訳では、「イエス・キリストの真実によって」と訳されています。「信仰」と訳されている言葉は、「真実」という意味も含んでいるからです。

 この辺りの翻訳はこれからも議論されていく所ではありますが、いずれにしろ、大切なことは、私たちには自分の信仰を誇ることができないということです。私たちの信仰を根本的に支えていてくださるのは、イエス様ご自身だということです。

 私たちはどうでしょうか。もし、私たちの信仰が自分の行いによって支えられているとするなら、その信仰生活はとても不確かなものになると言わざるを得ないでしょう。しかし、イエス様に支えられているなら、私たちは決して揺るがされることがありません。イエス様は真実な方であり、ご自分の支えを受け取った私たちの手を、決して離すような方ではないからです。試練の中で、誘惑の中で、私たちの信仰が揺るがされて、私たちの方でイエス様の手を離すようなことがあるとしても、イエス様は私たちの手を最後までぎゅっと握りしめていてくださるということです。イエス様を信じるというのは、そのイエス様を誇り、イエス様に支えられて生きることです。

 今日の礼拝に集まった私たち一人一人、今週もまた、イエス様に支えられていることを覚えたいと思います。そして、一週間の歩みへと遣わされていきたいと思います。

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