礼拝説教から 2020年7月19日

  • 聖書箇所:ローマ人への手紙3章9-20節
  • 説教題:すべての人が罪の下にある

 では、どうなのでしょう。私たちにすぐれているところはあるのでしょうか。全くありません。私たちがすでに指摘したように、ユダヤ人もギリシア人も、すべての人が罪の下にあるからです。(ローマ人への手紙3章9節)

 「彼らの目の前には、神に対する恐れがない。」(ローマ人への手紙3章18節)

0.はじめに

 今年は、新型コロナウィルスの影響の下で、礼拝に集まることのできなくなる期間がありました。現在は、集まっての礼拝が再開されて二ヶ月目に入っていますが、そこには様々な制限があります。私たちはとても難しい時期を過ごしていると言えるでしょう。

 しかし、その難しい状況の中で、先週は洗礼式を執り行うことができました。とても感謝なことであると共に、私たちの考える状況の良し悪しと関係なく、神様は常に働いていてくださることを覚えさせていただく機会にもなったように思います。

 今日もまた洗礼式があるということではありませんが、同じ神様が働いていてくださることを覚えながら、神様の御声に耳を傾けていきたいと思います。

 今日の本文はローマ人への手紙3章9-20節です。

1.

 パウロは「私たちにすぐれているところはあるのでしょうか」と問いかけています。「私たち」というのは、パウロ自身を含めたユダヤ人たちということになるでしょうか。パウロは、自分たちユダヤ人に優れている点があるのかという問題について、「全くありません」と言っています。自分たちユダヤ人は、自分たち以外の人々に比べて、何も優れた点がないと言っています。そして、それは、「ユダヤ人もギリシア人も」、「すべての人が罪の下にあるから」だということです。

 パウロは、すべての人が罪の下にあると言いました。ユダヤ人たちだけが罪の下にあると言っているのではありません。反対に、ユダヤ人以外の人々だけが罪の下にあると言っているのでもありません。すべての人が罪の下にあると言っているわけです。そこには例外がないということです。あるいは、すべての人が罪の下にあるという点において、私たちは平等であると言ってもいいのかも知れません。そして、すべての人が罪の下にあるということであるならば、その中には、ここに集まっている私たちも含まれていることになります。すべての人が罪の下にあるというのは、一般論としてではなくて、私たち一人一人の問題として、「私」の問題として、語られているということです。神様の言葉である聖書の言葉に触れる時、私たちは、自分の罪という問題について、神様から問いかけられているということです。「あなたはどうなのか」と問いかけられているということです。

 「自分は罪の下になんかない」という人はいるでしょうか。もしかしたら、「自分は何も悪いことをしていない、誰にも迷惑をかけた覚えはない、誰の前に出ても恥ずかしくない人生を歩んできた、何で自分が罪の下にあるんだ」と言う人がいるかも知れません。あるいは、「確かに恥ずかしい人生を送ってきた、でも、改めて罪の下にあるって言われると、何か抵抗を感じる」と思う人もいるかも知れません。

 罪の下にあるというのは、どういうことなのでしょうか。それは、罪の支配の下にあるということです。罪という網の下に捕えられて、決して逃げ出すことができないということです。「自分は決して法律を破らない、他人に迷惑をかけない、嘘もつかない、心の中で悪口を言ったりもしない」、いろいろと必死にがんばってみたとしても、罪の支配の下からは決して抜け出すことができないということです。

 さきほど、すべての人が罪の下にあるという点において、私たちは平等だということを言いました。

 現実にはなかなか実現しませんが、私たちはすべての人が平等であることを願います。その平等を、私たちは、ある一つの出来事において、実はすでに経験しています。誰に対しても、平等に訪れる一つの出来事を、ずっと経験してきました。それは、死ぬという出来事です。私たちは、死ぬという出来事において、平等だということです。私たちは死という問題から、決して逃れることができないということです。そして、それは、私たちが死の支配の下にあるということを意味しています。私たちは、どんなに否定したとしても、死の下にあるということです。そこには、たった一人の例外もないということです。

 「すべての人が罪の下にある」、それは「すべての人が死の下にある」ということと、同じようなものだと言えるのかも知れません。私たちが死を迎えるのは、「本当だったら、死ぬはずがなかったんだけど、ついお酒を飲みすぎて、死んでしまった」ということではありません。最終的には死んでしまう者として、生まれてきたということです。同じように、私たちは罪の支配の下に生まれてきたということです。「中学生の時に、つい魔がさして、罪に捕えられてしまった」というのではなくて、最初から罪の下にある者として生まれてきたということです。そこに例外はないということです。

 ちなみに、ローマ人への手紙を書いているパウロは、罪と死を結び付けて考えています。今日の本文からは外れますが、パウロは「罪の報酬は死です」と言っています。罪の結果が死だということです。すべての人が死の下に置かれているのは、すべての人が罪の下に置かれているからだと言ってもいいでしょう。

 罪の支配というのは、決して私たちの目に見えるものではありません。だからこそ、私たちは、自分が罪の支配の下にあることを認めることができません。私たちは、罪の支配の下にありながら、それに気づかないでいるということです。そして、そこが、罪の恐ろしい所でもあると言えるでしょう。

 そうすると、どういうことになるでしょうか。目に見えない罪の支配、自分では気づかない罪の支配について語っているパウロは、どのようにして罪の支配を知ることができたのでしょうか。

 パウロは、すべての人が罪の下にある根拠として、神様の言葉である旧約聖書を引用しました。パウロは、神様から教えられて、目に見えない罪の支配の現実を伝えているということです。

 パウロは、「義人はいない」と言っています。義人というのは、神様から義と認められる人のことです。正しいと認められる人のことです。そして、その義人のことが、「悟る者」と言い換えられています。悟るというのは、神様を神様として知るということになるでしょうか。だからこそ、その義人、悟る者は、「神を求める者」でもあるということになるのでしょう。しかし、その義人、悟る者、神を求める者が一人もいないということです。逆に、「すべての者」が神様から離れて行ってしまったのだということです。神様との関係を大切にして、神様と共に生きるのではなくて、神様から離れて行ったということです。そして、それが、罪の支配の下にあるということです。すべての人が神様と互いに向かい合って生きることを拒み、神様に支えられて生きることを拒み、神様から離れて行ったのであり、神様を拒んでいるという点において、すべての人は罪の下に置かれているということです。

 繰り返しになりますが、すべての人は罪の下にあります。そして、その罪の支配の下から、私たちは抜け出すことができません。罪は死につながっています。

 そうすると、どういうことになるでしょうか。パウロは、私たちにむなしい人生を語っているということになるのでしょうか。決してそうではないでしょう。なぜなら、神様は、自分の罪に気づいたすべての人々に、罪の支配から解放される道を、同時に示していてくださるからです。御子イエス・キリストという救いの道を示していてくださるからです。それが、聖書全体を通して明らかにされていることであり、来週以降の本文の中で、パウロが明らかにしようとしていることです。大切なことは、聖書を通して、神様から教えられて、自分もまた罪の下にあることに気づかされることであり、その罪の下から解放されるために、イエス様が十字架にかかってくださったことを知ることです。

 今日の礼拝に集まった私たちが、一人ももれることなく、神様ご自身から教えられて、罪の支配に気づかされることを願います。そして、イエス様を通して、その罪の支配から解放されることを願います。

2.

 パウロは、13-17節で、罪の下にある私たちの現実を描いています。そして、大きく二つのことに注目しています。一つ目は、喉、舌、唇、口、つまり、私たちの言葉です。二つ目は、足と道です。私たちの歩み、あるいは、たくさんの人々が生きる世界そのものの歩みと言ってもいいでしょうか。

 パウロは「彼らの喉は開いた墓」と言っています。ユダヤ人たちは、現在の私たちのように、死体を火葬にしたわけではありません。死体の葬られた墓の扉が開いてしまえば、中からは死体の腐った臭いが漂ってきます。そして、その開いた墓のように、罪の下にある私たちの言葉には、死体の腐った臭いが漂っているということです。それは、具体的には、欺きがあり、毒があり、呪いと苦みに満ちているということです。

 私たちの言葉はどうでしょうか。欺きはないでしょうか。毒はないでしょうか。呪いと苦みに満ちていることはないでしょうか。

 また、パウロは、「彼らは平和の道を知らない」と言っています。私たちは誰もが平和を願っています。しかし、そうであるにもかかわらず、私たちは平和を実現することができません。平和を願いながらも、平和を実現することができません。反対に、血を流すことの方がどれほど多いでしょうか。それは、私たちが平和の道を知らないということを意味していると言えるのかも知れません。

 そして、パウロは、罪の下にある私たちの現実を描いた後、最後に、罪の下にある私たちの目に注目しています。それは、「神に対する恐れがない」ということです。罪の下にある私たちの目には、根本的に神様に対する恐れがないということです。神様の前で好き放題のことをやっているということです。あるいは、神様に対する恐れがないからこそ、私たちの口からは、人を生かす言葉ではなく、人を傷つける言葉が出てくるのであり、私たちの進む道は、血にまみれているということになるのかも知れません。

 大切なことは何でしょうか。それは、神様を恐れることではないでしょうか。神様を恐れて生きることこそが、罪の下から解放された者の前に開かれている新しい道ではないでしょうか。そして、その神様を恐れて生きる道は、自分の罪に気づかされる所から始まります。神様と互いに向かい合って生きることを拒み、神様から離れて、自分中心に生きる罪を認める所から始まります。そして、そこは、同時に、罪人の自分を赦していてくださり、罪人の自分と共に生きることを願っていてくださる神様の愛に気づかされる所でもあります。そして、そこが、イエス様の十字架に他なりません。神様を恐れて生きる道は、イエス様の十字架の前から始まるということです。

 私たちの目はどうでしょうか。神様に対する恐れがあるでしょうか。

 毎週日曜日の礼拝の中で、イエス様の十字架の前で、自分の罪に気づかされ、その罪が赦されていることを教えられたいと思います。罪の下にある者として、神様を恐れないで生きる道ではなくて、イエス様の十字架の前から、神様を恐れて生きる道へと進んで行きたいと思います。そして、破壊と悲惨をもたらす言葉ではなくて、平和を作る言葉を語る者とならせていただきたいと思います。

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