礼拝説教から 2020年5月24日

  • 聖書箇所:ローマ人への手紙1章16-17節
  • 説教題:神の力と義の福音

 私は福音を恥としません。福音は、ユダヤ人をはじめギリシア人にも、信じるすべての人に救いをもたらす神の力です。福音には神の義が啓示されていて、信仰に始まり信仰に進ませるからです。「義人は信仰によって生きる」と書いてあるとおりです。(ローマ人への手紙1章16-17節)

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 緊急事態宣言が解除されて、一週間ちょっとが過ぎました。今の所は感染状況も落ち着いているようです。感謝します。

 先々週と先週の二週間に渡って、1章8-15節を見てきました。パウロは、ローマの人々に信仰を与えてくださった神様に感謝し、ローマに行って彼らと出会い、互いの信仰によって、共に励ましを受けることを願いました。そして、礼拝説教の中では触れることができませんでしたが、パウロはローマの教会の人々に対して、福音を伝えたいという切なる願いを訴えました。今日の本文である1章16-17節には、その福音について、改めて説明されています。

 もう少し、各家庭での礼拝が続きますが、今日も、各家庭で神様を礼拝する方々を覚えながら、まだ神様と出会っていない方々を覚えながら、神様の御声に耳を傾けていきたいと思います。

1.神の力 

 パウロは、わざわざ「福音を恥としません」と強調しています。

 どういうことなのでしょうか。それは、福音を恥とすることがあり得るということではないでしょうか。

 福音というのは、「良い知らせ」という意味の言葉です。聞く人に喜びをもたらす良い知らせだということです。そうであるにもかかわらず、福音を恥とすることがあり得るということです。福音を喜ぶことができず、堂々と福音を伝えることができないこともあり得るということです。

 どうしてでしょうか。それは、福音が誰にでも受け入れられるものではないからではないでしょうか。私たちが聞いて信じて喜ぶ福音を、一方では、無視したり、鼻で笑い飛ばしたりする人々がいるからではないでしょうか。あるいは、まさにローマの教会の人々こそ、福音を恥としてしまいたくなるような状況の中に置かれていたと言えるのかも知れません。旧約聖書の伝統や文化を前提としないローマの町でイエス様を信じて生きる彼らこそ、喜んで福音を伝えることができないような状況に置かれていた人々ということになるのかも知れません。

 福音を恥としないというパウロの言葉を見て、私は福音を恥としてばかりいるのではないかということを思わされます。もちろん、私も福音を聞いて信じて喜んでいます。そして、福音を伝えることを願っています。だからこそ、教会の牧師という立場にもあります。しかし、例えば、正月に実家に帰ったりして、久しぶりに出会う家族の会話を聞いていると、やはり福音を語ることの難しさを痛感させられます。「ここで福音を語り出すなんて、恥ずかしくてできない」という思いに捉われてしまうわけです。

 パウロは、福音を恥としないと言いながら、その根拠を示しています。それは、福音が神様の力だからだということです。

 ここで「力」と訳されているのは、英語のダイナマイトの語源となる言葉です。「バーン」と爆発するダイナマイトです。固い物を砕き、大きなビルをも吹き飛ばす力のあるダイナマイトです。

 ダイナマイトは固い物を粉々に破壊します。本来は良いことのために発明されたはずですが、私たちは、それを戦争の道具に、人の命を奪うための道具に用いたりもしています。

 それでは、そのダイナマイトの語源となった力、福音の力は何を破壊するのでしょうか。それは、神様の前で頑なな私たち自身ではないでしょうか。ダイナマイトのような福音の力が粉々に破壊するのは、神様の前でカチコチに凝り固まっている私たち自身です。

 罪というのは、何でしょうか。それは、私たちが神様の前で頑なになっていることです。神様の前でカチコチに凝り固まっていることです。カチコチに凝り固まって、神様からの語りかけを聞こうとしないことです。私たちを愛し、私たちと共に生きることを願っておられる神様からの語りかけを、頑なに拒んで聞こうとしないことです。そして、御子イエス様の福音には、そんな頑なな私たち自身を粉々に破壊する力があるということです。神様の前で頑なな私たちを粉々に破壊して、神様の語りかけを聞く者にする力があるということです。福音のもたらす救いというのは、他でもなく、頑なな私たちが神様からの語りかけを聞く者にされるということです。神様の語りかけを聞いて、神様に導かれながら、神様と共に生きることが、福音のもたらす救いだということです。

 パウロは、福音が「信じるすべての人に救いをもたらす」と言っています。「すべての人に」ではありません。「信じるすべての人に」です。そして、その「信じる」人が、私たちの住んでいる日本には決して多くありません。世界でも有数の少なさです。

 どうでしょうか。私たちはパウロの言う福音の力をどれだけ実感しているでしょうか。関心すら持ってもらえないことが多い中で、ダイナマイトのような福音の力を実感できないでいるというのが、私たちの現実となっていることはないでしょうか。

 実は、私自身がそのような者の一人だと言わなければならないかも知れません。私自身が、牧師として、伝道者として、ダイナマイトのような福音の力をなかなか実感できずにいます。しかし、そうであるにもかかわらず、私はダイナマイトのような福音の力を味わっています。それは自分自身を通してです。

 私は自分がとても頑固な人間なのだということを思います。昔はそんなことはないと思っていましたが、今ではとても頑固者だということを認めざるを得ません。自分が、カチコチで、柔軟性がなく、融通の利かない人間だということを痛感させられています。そして、そんな頑固者の自分がイエス様を信じる者とされているのを見る時、私はダイナマイトのような福音の力が分かるように思います。福音そのものに力があるからこそ、福音にはダイナマイトのような破壊力が秘められているからこそ、頑固者の自分が砕かれて、イエス様を信じて受け入れていることが分かります。

 もしかしたら、関心すら持ってもらえないことが多い中で、ダイナマイトのような福音の力をなかなか実感できないのが、私たちの現実であるかも知れません。しかし、実際に福音を聞いて信じて受け入れている私たち自身を見る時、私たちは、福音そのものの力、神様の力を味わうことができるのではないでしょうか。神様の前でカチコチに凝り固まっていたにもかかわらず、神様を信じて受け入れている私たち自身の存在が、ダイナマイトのような福音そのものの力、神様の力を証ししているのではないでしょうか。

 「福音は、ユダヤ人をはじめギリシア人にも、信じるすべての人に救いをもたらす神の力です。」この福音そのものの力を信じたいと思います。神様の力を信じたいと思います。そして、福音を恥とするのではなくて、喜んで福音を伝える者となることができることを心から願います。

2.神の義

 17節の前半の文章は、その前の文章の理由、根拠になっています。パウロは、福音が「信じるすべての人に救いをもたらす神の力」だと言いましたが、それは、「福音には神の義が啓示されていて、信仰に始まり信仰に進ませるから」だということです。啓示というのは、隠されていたものが明らかにされたということです。福音には神様の義が明らかにされているからこそ、その福音を聞いて信じるすべての人々に救いをもたらすのだということです。あるいは、福音を聞いて信じるすべての人々に救いをもたらすのは神様の義だと言ってもいいのかも知れません。

 それでは、神様の義というのは、何なのでしょうか。義というのは、正しいということです。神様の義というのは、神様が正しい方であるということです。

 しかし、どうなのでしょうか。神様が正しい方であるというのは、私たちと何の関係があるのでしょうか。神様の義がどうして私たちに救いをもたらすのでしょうか。

 ヨハネの手紙第一1章9節には、<もし私たちが自分の罪を告白するなら、神は真実で正しい方ですから、その罪を赦し、私たちをすべての不義からきよめてくださいます。>とあります。

 ヨハネは、神様が正しい方であるが故に、罪を赦してくださると言っています。愛に満ちた方だから、憐れみ深い方だからと言っているのではありません。正しい方だからこそ、罪を赦してくださるのであり、不義からきよめてくださるのだと言っています。

 神様の義、神様が正しい方であるというのは、ただ単に、神様が正しい方であるというだけのことではありません。そうではなくて、神様の義、神様が正しい方であるのは、私たちの罪が赦される根拠になっているということです。頑なに神様の愛を拒み、神様と共に生きることを拒み、自分中心に生きる私たちの罪が赦されて、私たちが神様の前で義と認められる根拠となるものです。

 そうすると、大切なことは何でしょうか。それは、神様の義、イエス様の義をいただくことです。そして、イエス様の義をいただくというのは、私たちが自分の義を主張しないということです。自分の義を誇りとして生きるのではなくて、イエス様の義を誇りとして生きるということです。誇るべき自分の義を見つけられなくても、イエス様の義に支えられて生きるということです。

 イエス様の時代、自分の義、自分の正しさを主張する人々がいました。それは、律法学者と呼ばれる人々、パリサイ人と呼ばれる人々です。そして、彼らについて、ルカの福音書18章9節には、「自分は正しいと確信していて、ほかの人々を見下している人たち」と説明されています。律法学者たちやパリサイ人たちは、ただ単に、自分の義、自分の正しさを確信して主張していただけではなくて、他の人々を見下していたということです。

 義ということ、正しいということ、それはとても大切なことです。しかし、自分の義、自分の正しさが声高に主張される中で、見下される人々がいて、傷つけられる人々がいるとすれば、どうでしょうか。そのような義、正しさには、何の意味があるのでしょうか。見下される人々がいる、傷つけられる人々がいることを前提として主張されるような自分の義、自分の正しさには、何の意味もないということです。何の意味もないばかりか、本人以外の人々には、迷惑でしかないわけです。

 イエス様は律法学者たちやパリサイ人たちから罪人と呼ばれた人々を招かれました。そのイエス様の義は、決して人々を見下して傷つけるようなものではありません。イエス様の義は、反対に、ご自分を傷つけました。ご自分を十字架にかけて傷つけました。そして、人々に赦しを与え、新しい人生へと招くものです。

 パウロは、福音にはイエス様の義が明らかにされていると言いました。私たちに必要なのはそのイエス様の義です。イエス様を自分の救い主として信じ受け入れて、イエス様の義をいただくことです。それが、「義人は信仰によって生きる」ということに他なりません。「義人は信仰によって生きる」というのは、誇るべき義のない罪人の私たちが、イエス様の義をいただき、イエス様の義に支えられて生き続けるということです。

 パウロは、「ローマにいるあなたがたにも、ぜひ福音を伝えたい」と言っています。「あなたがた」というのは、ローマの教会の人々のことです。ローマにいるノンクリスチャンの人々ではありません。パウロと同じ信仰を持っているはずの人々です。しかし、そのローマの教会の人々に、パウロは福音を伝えたいのだと言っているわけです。

 どういうことでしょうか。それは、もしかしたら、ローマの教会の中にも、イエス様の義ではなくて、自分の義を主張する人々がいたということなのかも知れません。自分の義を主張する人々がいたからこそ、パウロはイエス様の義が明らかにされている福音を伝える必要があったということなのかも知れません。

 私たちはどうでしょうか。イエス様の義をいただき、イエス様の義だけを誇りとしているでしょうか。いつのまにか、自分の義を主張することに、必死になっていることはないでしょうか。そして、周りの人々を見下して傷つけていることはないでしょうか。

 イエス様の十字架の前に立たせていただく時、私たちは自分の義を主張することができなくなります。イエス様の十字架の前に立たせていただく時、私たちは「正しい人」を十字架につけた自分の罪を認めざるを得なくなります。しかし、そこには同時に、罪人の自分が赦されるために十字架にかかってくださったイエス様を信じて、イエス様の義をいただく道が開かれています。自分の義を主張するのではなくて、イエス様の義に支えられて生きる道が開かれています。

 今日から始まる新しい一週間も、いつもイエス様の十字架の前に立たせていただきたいと思います。そして、自分の義、自分の正しさを誇るのではなくて、イエス様の義、イエス様の正しさだけを誇りとして生きることができることを、心から願います。

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