礼拝説教から 2020年5月17日

  • 聖書箇所:ローマ人への手紙1章8-15節
  • 説教題:ともに励ましを受けたい

 私があなたがたに会いたいと切に望むのは、御霊の賜物をいくらかでも分け与えて、あなたがたを強くしたいからです。というより、あなたがたの間にあって、あなたがたと私の互いの信仰によって、ともに励ましを受けたいのです。(ローマ人への手紙1章11-12節)

0.

 4月に出された緊急事態宣言が39の県で解除されました。滋賀県では、新たな感染の確認されていない日がしばらく続いています。一つの大きな波を越えたと言ってもいいのかも知れません。

 しかし、緊急事態宣言の解除は、私たちの生活が以前の状態に戻ることを意味しているわけではありません。緊急事態宣言が解除されて、気が緩むと、また一気に感染の拡大する恐れがあり、私たちは「三つの密」を避けるなどの努力をしていくことが続けて求められています。細心の注意を払いながら、「新しい生活様式」を確立していかなければならないということになるわけです。

 そして、それは、教会の礼拝や様々な活動においても同じです。教会もまた、これまで通りの形に戻るというよりは、「新しい生活様式」に合わせて、新しい形を模索し続けていくことになるでしょう。

 近いうちに、礼拝や様々な活動が再開できることを期待していますが、神様の丁寧な導きに従って、祈りながら、神様の御心に適った礼拝や活動を新しく模索していくことができればと思います。

 先週は、ローマ人への手紙1章8-15節を見ました。パウロは、ローマの人々に信仰を与えてくださった神様に感謝をすると共に、ローマに行くことを切に願いました。すでに何度もローマに行く計画を立てていたものの、その度に計画は妨げられていましたが、神様の御心によって、道が開かれて、何とかしてローマに行くことができることを願いました。

 今週も先週と同じ箇所を本文としましたが、今日は、主にパウロがローマに行きたがった理由、ローマの教会の人々に会いたがった理由に注目をしてみたいと思います。

 各家庭で神様を礼拝する方々を覚えながら、まだ神様を知らない方々を覚えながら、神様の御声に耳を傾けていきたいと思います。

1.

 パウロはローマの教会の人々に会いたいと切に願う理由を説明しています。それは、「御霊の賜物」を「分け与えて」、彼らを「強くしたい」からだということです。パウロは、ローマの教会の人々に御霊の賜物を分け与えることによって、彼らを強くすることを願っているということです。

 賜物というのは、何でしょうか。それは、神様から与えられる贈り物、プレゼントということです。神様が一方的な好意によって与えてくださる贈り物です。

 この聖霊の賜物について、パウロはコリントの教会に宛てた手紙の中で説明をしています。コリント人への手紙第一12章には、聖霊の賜物として、「知恵のことば」、「知識のことば」、「信仰」、「癒やし」、「奇跡を行う力」、「預言」、「霊を見分ける力」、「異言」、「異言を解き明かす力」が挙げられています。そして、これらの賜物が聖霊によって与えられるのは、奉仕のためであり、働きのためです。ちょっと俗っぽい言い方をすれば、聖霊の賜物というのは、奉仕や働きのために与えられた能力ということになるのかも知れません。

 何らかの能力があるというのは、どうでしょうか。それはとても素晴らしいことです。そして、うれしいことです。あるいは、自分の持っている能力が、自分の誇り、自慢となったりすることがあるかも知れません。そして、人々から認められるために、自分の持っている能力を見せる、見せびらかすということがあるかも知れません。

 実は、コリントの教会では、聖霊の賜物によって大きな混乱が起こっていました。言ってみれば、賜物自慢のようなことが起こっていました。コリントの教会において、聖霊の賜物は、各自が自分を誇るために用いられていたということです。

 しかし、今日の本文の中で、パウロが言っているのは、どういうことでしょうか。それは、聖霊の賜物によって、ローマの教会の人々を強くしたいということです。パウロは、聖霊によって、使徒である自分の能力を誇ろうとしているのではありません。使徒である自分の権威を高めようとしているのではありません。そうではなくて、相手を強くしようとしているということです。パウロは、聖霊の賜物によって、ローマの教会を建て上げる、ローマで信仰生活をする人々を力づけたいと願っているということです。

 聖霊の賜物というのは、何でしょうか。それは、自分を誇るために与えられるものではありません。そうではなくて、教会を建て上げるために、周りの人々を力づけるために、与えられるものです。自分のためではなくて、教会全体のために、周りの人々のために、与えられるものです。そして、その聖霊の賜物を、パウロはローマの教会の人々に分け与えることを願いました。

 私たちはどうでしょうか。どのような聖霊の賜物が与えられているでしょうか。聖霊の賜物がどのように用いられているでしょうか。自分を誇るためでしょうか。自分が認められるためでしょうか。あるいは、教会全体のためでしょうか。周りの人々のためでしょうか。

 私たちに与えられている聖霊の賜物がどのようなものであるにしろ、教会全体のために、また社会のために、用いられることを願います。

2.

 聖霊の賜物を分け与えて、ローマの教会の人々を強くしたいと言った後、パウロは、「というより」と言っています。「というより」というのは、「より適切に言うならば」ということです。つまり、パウロは、前に言った言葉を、より適切な言葉で言い換えているわけです。

 どういうことでしょうか。パウロは、聖霊の賜物を分け与えて、ローマの教会の人々を強くしたいと願いましたが、そのことは、より適切に言うならば、互いの信仰によって、共に励ましを受けたいのだということです。パウロは、ローマの教会の人々と出会い、彼らの間に入って、互いの信仰によって、共に励ましを受けることを願っているということです。パウロは、一方的にローマの教会の人々を強めたい、励ましたいと願っているのではなくて、自分もまた、彼らの信仰によって励まされることを願っているということです。互いに励まし合うことを願っているということです。

 パウロというのは、どのような人でしょうか。パウロは使徒です。教会の指導的な立場にある人です。教会の頭であるイエス様ご自身によって、教会を指導する使徒として立てられた人です。そして、パウロは、使徒と呼ばれるに相応しい信仰や知識を持っています。

 逆に、ローマの教会の人々はどうでしょうか。確かに、神として礼拝されるローマ皇帝のお膝元でイエス様に従って生きる彼らの信仰は、驚くべきものです。しかし、彼らは、同時に、クリスチャンとしては、初心者と言ってもいいような人々です。使徒であるパウロからたくさんのことを学ばなければならない人々です。謙遜に教えられなければならない人々です。彼らは、使徒であるパウロからすれば、教えることはあっても、教わることはないと言える人々なのかも知れません。

 しかし、そうであるにもかかわらず、パウロは、クリスチャンとして初心者であるようなローマの教会の人々から、自分もまた、励ましを受けたいのだと言っているわけです。彼らの信仰によって励ましを受けたいのだと言っているわけです。

 どういうことなのでしょうか。

 私は、共に励ましを受けたいというパウロの言葉を見て、イエス様の前で本当に砕かれていなければ、自分を支える誇り、プライドが、粉々に砕かれていなければ、決して言えないことではないかということを思いました。

 クリスチャンになった頃の私には、先輩のクリスチャンたちから教わろう、学ぼうという姿勢があったように思います。心を開いて耳を傾けながら、教わったり、励ましを受けたりしていたように思います。

 しかし、クリスチャンとして、信仰生活が続き、知識が増え、奉仕も経験したりするようになってくると、いつのまにか、「教えてやろう」、「励ましてやろう」という思いばかりが先立つようになっていたのではないかと思います。そして、その反対に、教わること、励ましを受けることが、できなくなっていったように思います。もちろん、立派な信仰の先輩たちからは、教わろう、励ましを受けたいと思うわけですが、例えば、クリスチャンになったばかりの人々、信仰がフラフラしているように見える人々からは、無意識のうちに、何も教わりたくない、励ましを受けたくないと思ってしまったわけです。私は、信仰の仲間を教え励ますどころか、逆に、教会の交わりを破壊していたと言えるのかも知れません。そして、それは、私がイエス様の前で砕かれていなかったということに他ならないでしょう。イエス様を誇るのではなくて、自分を誇り、認めてもらおうとしていたということに他なりません。

 信仰が成長する、敬虔なクリスチャンになるというのは、どういうことでしょうか。それは、ただ単に、聖書の知識や奉仕の経験が増えるということではないでしょう。どのような状況の中でも揺るがないような信仰を身に付けるということでもないように思います。誰かを教えたり励ましたりすることができるようになることでもないのだと思います。そうではなくて、それは、自分の罪を知って認め続ける者になるということではないでしょうか。イエス様の十字架の前で、自分の中に誇るべきものが何もないことを認めながら、砕かれ続ける者になるということではないでしょうか。誰かを力づけるどころか、誰かを励ますどころか、逆に、力づけてもらわなければならない、励ましてもらわなければならない者であることを、認め続けるということではないでしょうか。そして、だからこそ、イエス様に依り頼み、イエス様を中心とする教会の交わりの中で、共に励ましを受けたいと願う者になるということではないでしょうか。様々な信仰者が集まる教会の中で、誰からも教わり励まされることのできる、砕かれた者になるということではないでしょうか。

 イエス様の十字架を見上げていなければ、イエス様の十字架の前で砕かれていなければ、私たちの交わりは互いの励ましにはなりません。交わりは、互いの励ましになるどころか、逆に、つまずきを与える原因になってしまうでしょう。クリスチャンの交わりというのは、クリスチャンが集まれば自動的に成立するものではないわけです。

 しかし、イエス様の十字架の前で、自分の罪を知り、自分こそが罪人の頭であることを知り、その自分を愛して赦してくださったイエス様だけを誇りとする時、私たちの交わりは互いの励ましとなります。信仰生活の長い人も、クリスチャンになったばかりの人も、たくさんのことを学んだ人も、そうでない人も、たくさんの奉仕をする人も、そうでない人も、互いに励まし合うことができます。交わりを喜ぶことができます。

 私たちの教会はどうでしょうか。私たちの出会い、私たちの交わりはどうでしょうか。共に励ましを受けるような出会いや交わりになっているでしょうか。

 新型コロナウィルスによって、一時的に集まることそのものができなくなりましたが、改めて、集まることのできる喜びを味わいたいと思います。一緒にイエス様をほめたたえることのできる喜びを味わいたいと思います。私たち一人一人が、イエス様の前で砕かれて、イエス様だけを「私の誇り」、「私たちの誇り」としたいと思います。そして、そのイエス様を中心とした私たちの交わりが、互いの励ましになることを心から願います。

コメントを残す