礼拝説教から 2020年5月10日

  • 聖書箇所:ローマ人への手紙1章8-15節
  • 説教題:神様への感謝

 まず初めに、私はあなたがたすべてについて、イエス・キリストを通して私の神に感謝します。全世界であなたがたの信仰が語り伝えられているからです。(ローマ人への手紙1章8節)

 祈るときにはいつも、神のみこころによって、今度こそついに道が開かれ、何とかしてあなたがたのところに行けるようにと願っています。(ローマ人への手紙1章10節)

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 ステイホーム週間と呼ばれたゴールデンウィークが終わりました。新型コロナウィルスの感染拡大は少し抑えられてきた感じがありますが、5月6日までとされていた緊急事態宣言は5月末まで延長となりました。まだまだ予断を許さない状況が続いています。しかし、その一方で、地域によっては緊急事態措置が段階的に緩和されています。滋賀県でも、11日から、「外出自粛要請」や「イベント自粛要請」が段階的に緩和される見通しとなっています。段階的な緩和措置が今後の感染状況にどのように影響するのかを見ていく必要がありますが、もしかしたら、栗東キリスト教会でも礼拝の再開に向けて準備を進めていくことができるかも知れないということを思います。期待して祈っていきたいと思います。

 先週まで、三回に分けて、ローマ人への手紙1章1-7節を見てきました。今日はその次の8-15節に進みたいと思います。今週も、各家庭で神様を礼拝する方々を覚えて、まだ神様と出会っていない方々を覚えて、神様の声に耳を傾けていきたいと思います。

1.私の神に感謝します

 パウロは、まず初めに、神様に感謝をしました。それは、ローマの教会の人々についてです。そして、その理由は、ローマの教会の人々の信仰が全世界で語り伝えられているからだということです。「語り伝えられている」というのは、「評判になっている」と言ってもいいでしょう。

 ローマの教会の人々の信仰は、全世界で評判になっていました。それは、ローマという町が、広大な地域を支配するローマ帝国の、まさに本拠地だったことと関係していると言えるでしょう。つまり、ローマという町は、神として礼拝されているローマ皇帝の、まさにお膝元だったわけであり、そのローマの町において、皇帝ではなくて、イエス様を信じて礼拝する教会が存在するというのは、その事実だけでも驚くべきことだったということです。そして、そのローマの町でイエス様を信じて礼拝する人々について、パウロは神様に感謝しているということです。

 しかし、だからと言って、それは、パウロがローマの教会の人々に対して、「あなたがたの信仰は立派だ」と言って、褒めているわけではありません。そうではなくて、神様に感謝しているということです。

 どういうことでしょうか。それは、信仰が、「神の福音」によって、神の子であるイエス様に関する福音によって、与えられるものだからではないでしょうか。パウロは、信仰が、御子イエス様に関する福音を通して、神様から与えられるものだからこそ、ローマの教会の人々に信仰を与えてくださった神様に感謝しているということではないでしょうか。そして、だからこそ、その感謝は「イエス・キリストを通して」のものになるのではないでしょうか。

 ローマ人への手紙は全体が16章から成りますが、12章以降には、具体的な信仰生活における教えが記されています。そして、そこにはローマの教会の人々に対する少し厳しい戒めの言葉が何度も繰り返して出てきます。

 どういうことでしょうか。それは、ローマの教会、そこに集まる人々の信仰に、何らかの問題があったということではないでしょうか。あるいは、パウロに言わせれば、ローマの教会の人々の信仰など、全世界で評判となるに値するようなものではなかったということになるのかも知れません。しかし、そうであるにもかかわらず、パウロは、彼らの信仰について、神様に感謝したということです。

 どうしてでしょうか。

 パウロがピリピの教会に宛てた手紙の冒頭部分を見ると、パウロはピリピの教会についても、神様に感謝しながら、「あなたがたの間で良い働きを始められた方は、キリスト・イエスの日が来るまでにそれを完成させてくださると、私は確信しています」と言っています。

 ピリピの教会は、パウロの伝道によって始まりました。しかし、パウロが見ていたのは、自分の伝道の成果ではなくて、神様の良い働きでした。そして、パウロは、神様が、良い働きを始められただけではなくて、その良い働きを完成させてくださることを確信していました。つまり、パウロは、神様を見つめながら、ピリピの教会について感謝をしていたということです。

 ローマの教会は全世界で評判になっていましたが、もしかしたら、パウロの目にはたくさんの問題が映っていたかも知れません。しかし、パウロはそのローマの教会の人々について、まず神様に感謝しました。そして、それは、パウロが、ローマの教会の人々の具体的な信仰生活だけを見つめていたのではなくて、彼らに信仰を与えてくださった神様を見つめていたからではないでしょうか。そして、神様を見つめる時、彼らの信仰について、やはり神様に感謝せざるを得なかったということではないでしょうか。ローマの教会においても、良い働きを始めて、最終的には完成させてくださる神様に期待して、感謝せざるを得なかったということになるのではないでしょうか。

 感謝をするというのは、とても大切なことです。誰もが感謝することの大切さを知っているのではないかと思います。

 しかし、どうでしょうか。私たちはどれだけ感謝しているでしょうか。感謝で始まり、感謝で終わるような日が、どれだけあるでしょうか。

 目の前の出来事や状況だけを見つめる時、私たちはいつも同じように感謝できるとは限りません。苦しいことや辛いことがあったら、やはり感謝することは難しいわけです。問題が山積みになっていれば、感謝なんてなかなかできないわけです。

 しかし、その目の前の現実をすべて御手の中に置いておられる神様に目を向ける時、良い働きを始めて完成させてくださる神様に目を向ける時、私たちの心は感謝へと導かれていくのではないでしょうか。状況に左右されることなく、神様の故に感謝し、また喜ぶことができるのではないでしょうか。

 新型コロナウィルスによってもたらされた最近の状況は、決して簡単なものではありません。感謝どころか、不平や不満でストレスの溜まっている人々が多いかも知れません。先行きの見えない状況の中で、不安を抱き、絶望する人々が多いかも知れません。

 しかし、神様はその私たちの間で変わることなく働いていてくださいます。この世界を良いものとして造り、私たちを愛するが故に、御子イエス様の命を与えてくださった神様は、現在もその良い働きを続けてくださっていて、最終的には完成させてくださいます。大切なことは、私たちの目がその神様へと向けられることです。

 私たちの目はどこに向けられているでしょうか。問題ばかりの現実でしょうか。先行きの見えない現実でしょうか。あるいは、問題ばかりの現実や先行きの見えない現実と共に、その現実の中で、良い働きを続けていてくださる神様へと、目が向けられているでしょうか。

 パウロが見つめていた神様は、現在の世界においても、現在の私たちの教会においても、良い働きを続けていてくださる方であることを覚えたいと思います。そして、その神様に目を向けて、神様の故に、感謝することができればと思います。

2.神のみこころによって

 パウロはいつもローマの教会の人々のことを思っていたようです。そして、それだけではなくて、実際に会いたいと願っていました。しかも、パウロはすでに何度もローマに行くことを試みていたようです。パウロは、すでに何度もローマに行く計画を立てていましたが、その度に、何らかの事情で、計画は実現しなかったようです。

 ローマに行くというパウロの計画は何度も妨げられてきました。ローマ人への手紙を書いていた時、パウロは自分の計画が思い通りに行かない経験を何度も繰り返していたということになります。

 「今度こそついに道が開かれ、何とかしてあなたがたのところに行けるように」というパウロの言葉には、ローマに行きたいというパウロの強い願いが表れています。しかし、パウロは同時に、それは、「神のみこころによって」だということを言っています。パウロは、自分の願いではなくて、あくまでも、神様の御心を大切にしたようです。そして、その神様の御心によって、ローマに行くことを願ったということです。

 イエス様に捉えられて、イエス様を信じて生きる使徒パウロの生涯は、思い通りにいかないことの連続だったと言ってもいいのかも知れません。しかし、新約聖書のどこを見ても、パウロがそんな自分の人生を面白くないと思っていたようには見受けられません。実際に、意味のない人生でもありませんでした。なぜなら、神様がその御心によって、パウロを豊かに用いていてくださったからです。あるいは、パウロがいつも経験していたのは、自分の願いよりも、はるかに素晴らしい神様の御心だったということになるのかも知れません。

 信仰生活というのは、自分の思い通りにいかないことの連続です。私たちは、自分の思い通りにいかないことばかりの中で、イライラしたり、不安になったりすることがあるかも知れません。しかし、その自分の願いや計画が思い通りにいかないことの中で、神様はご自分の御心を着々と進めておられます。そして、大切なことは、その神様の御心に目を向けることです。神様の御心は私たちの小さな願いや計画よりもはるかに大きくて素晴らしいものであることを認めることです。そして、だからこそ、その神様の御心に従って生きることです。

 4月から、栗東キリスト教会では、集まることが妨げられています。集まることは神様の御心です。その神様の御心に従って、私たちは集まることを願っています。しかし、そうであるにもかかわらず、集まることが妨げられています。そして、多くの教会が似たような状況に置かれています。

 礼拝に集まることができない状況の中で、神様は何を願っておられるのでしょうか。神様の御心は何なのでしょうか。それは私たちには分からないのかも知れません。

 しかし、確実に言えることの一つは、神様が変わることなくご自分の御心を着々と進めておられるということです。私たちの願いや計画よりもはるかに素晴らしいご自分の御心を、新型コロナウィルスによってもたらされた現在の状況の中でも、着々と進めておられるということです。

 私たちを取り巻く状況は、必ずしも私たちの願っているものではないかも知れません。私たちの願いや計画はなかなか実現していないかも知れません。しかし、まさにその同じ時に、神様ははるかに素晴らしいご自分の御心を着々と進めておられます。

 神様の御心は、私たちの小さな願いや計画よりもはるかに素晴らしいものであることを、いつも覚えたいと思います。そして、その神様の御心が実現することを願い、そのために用いられる者でありたいと思います。

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