礼拝説教から 2020年5月3日

  • 聖書箇所:ローマ人への手紙1章1-7節
  • 説教題:信仰の従順

 この方によって、私たちは恵みと使徒の務めを受けました。御名のために、すべての異邦人の中に信仰の従順をもたらすためです。(ローマ人への手紙1章5節)

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 今日はゴールデンウィーク真っ最中の日曜日です。しかし、新型コロナウィルスの影響で、今年のゴールデンウィークはステイホーム週間と呼ばれています。そして、ステイホームは教会も同じです。栗東キリスト教会では、4月からステイホーム礼拝に取り組んでいます。ステイホーム週間どころか、ステイホーム月間になってしまいました。

 日曜日の礼拝では、先々週から、ローマ人への手紙を見ています。先々週、先週に続いて、今週も、ローマ人への手紙1章1-7節から、神様の御声に耳を傾けていきたいと思います。そして、その神様の御声が、各家庭で礼拝する方々の胸に、まだイエス様を知らない方々の胸に、しっかりと届くことを心から願います。

1.御名のために

 パウロは、イエス様によって、「恵みと使徒の務め」を受けたと言っています。ただ単に、使徒の務めを受けたと言っているのではありません。使徒の務めと共に、恵みを受けたと言っています。

 使徒の務めというのは、福音を宣べ伝えることですが、恵みというのは、どういうことでしょうか。

 20世紀最大の神学者とも言われるカール・バルトという人は、この恵みについて、「神が一人の人間に好意を持ち、人間が神にあって喜びうるという不可解な事実である」と言っています。恵みというのは、神様が私たち一人一人に好意を持っていてくださることであり、私たちはその神様の故に喜ぶことができるということです。そして、それは不可解な事実、私たちには理解のできない事実だということです。

 どうしてでしょうか。なぜなら、私たちには、神様から好意を受ける理由がないからです。私たちの側には、神様から嫌われる理由や怒りを買う理由はあるとしても、好意を受ける理由はないからです。

 私たちは神様に敵対する罪人です。神様に愛されて造られたにもかかわらず、神様と共に生きる者として造られたにもかかわらず、神様を拒み、神様から離れて生きようとする罪人です。そして、神様を拒む私たちの罪は、御子イエス様を十字架につけた出来事によって、明らかにされています。

 本来なら、私たちは、神様から見捨てられたとしても、何ら仕方のないことでしょう。しかし、その私たちに対して、神様は好意を持っていてくださいます。だからこそ、ご自分に敵対する私たちを赦してくださり、私たちと共に生きることを願っていてくださいます。その神様からの一方的な好意が、恵みだということです。受け取る資格のない私たちに与えられている、神様からの一方的な好意が、恵みだということです。そして、その恵みを恵みとして受け取る時、私たちは喜ぶことができるということです。神様と共に生きる喜びが与えられるということです。

 パウロは、その恵みを、使徒の務めと共に、受け取りました。あるいは、使徒の務めもまた、恵みと別のものではなくて、恵みとして受け取ったものと言った方がいいのかも知れません。

 ちなみに、新改訳2017で「恵みと使徒の務めを受けました」と訳されている部分は、フランシスコ会訳では「使徒として福音を伝える恵みを授かりました」と訳されています。使徒として福音を伝える務めそのものが恵みだということです。

 そして、だからこそと言えるでしょうか。使徒パウロの働きは、「御名のために」なされるということにつながるのではないでしょうか。パウロが使徒として福音を宣べ伝えるのは、自分の名前のためではなくて、イエス様の名前のためだということです。イエス様の名前が広められ、イエス様の名前が崇められるために、パウロは福音を宣べ伝えているのだということです。

 「御名のために」使徒の務めを与えられたというパウロの姿勢は、パウロが書いた他の手紙にも表れています。コリント人への手紙第二4章5節です。<私たちは自分自身を宣べ伝えているのではなく、主なるイエス・キリストを宣べ伝えています。私たち自身は、イエスのためにあなたがたに仕えるしもべなのです。> 

 パウロは、コリントの教会の人々に対して、自分自身ではなくて、イエス様を宣べ伝えているのだと強調しています。そして、そのイエス様のために、「あなたがたに仕えるしもべ」だと言っています。「あなたがた」というのは、パウロの手紙を受け取るコリントの教会の人々です。そのコリントの教会の人々に対しても、パウロは自分がしもべなのだと言っているということです。そして、それはイエス様のためだということです。

 福音を宣べ伝える、福音宣教というのは、どういうことでしょうか。今日の本文を見る時、その一つの意味は、イエス様の名前のためになされることだということになるでしょう。福音宣教というのは、イエス様の名前のために、イエス様の名前が広められるためになされることだということです。そして、それは、逆に言うと、私たちが小さくならなければならないということです。イエス様に対しても、福音を受け取る人々に対しても、小さなしもべとなることです。イエス様の名前が広められれば広められるほど、イエス様の名前を宣べ伝える私たち自身は小さくならなければならないということです。あるいは、福音宣教によって、私たち自身が評価をされたり、教会の名前が広まったりすることになるならば、それは、どこか本質からずれているということになるのかも知れません。

 私たちは使徒ではありません。イエス様の弟子だった12人と同じような、パウロと同じような使徒ではありません。しかし、パウロが受け取った使徒の務めは、現在の私たちにも与えられています。私たちは、パウロと同じような使徒では決してありませんが、パウロがイエス様から受け取った使徒の務めを、福音を宣べ伝える使徒の務めを、同じように受け継いでいます。そして、それは、私たちもまた、パウロと同じように、イエス様のしもべであり、福音を受け取る人々のしもべであるということを意味しています。

 私たちはどうでしょうか。福音を宣べ伝える使徒の務めに生きているでしょうか。イエス様のしもべとなっているでしょうか。福音を受け取る人々のしもべとなっているでしょうか。福音を宣べ伝えているつもりでいて、福音の中心であるイエス様よりも、私たち自身が大きくなっていることはないでしょうか。

 静かに過ごすことが求められているこの時、福音を宣べ伝える私たち自身の姿を、改めて見つめ直すことができればと思います。そして、イエス様のしもべとなって、福音を受け取る人々のしもべとなって、イエス様の名前のために用いられることを心から願います。

2.信仰の従順

 パウロは外国人たちの中に、「信仰の従順をもたらす」と言っています。ただ単に、「信仰をもたらす」と言っているのではありません。「信仰の従順をもたらす」と言っているわけです。

 どうでしょうか。「信仰の従順」というのは、分かったような、分からないような表現ですが、私は、この「信仰の従順」という表現によって、信仰の何たるかを改めて考えさせられるように思います。

 信仰というのは何でしょうか。パウロの言葉によれば、その一つの意味は、従順を伴うものということになるのではないでしょうか。信仰には従順が伴ってくるということです。もちろん、その信仰の対象はイエス様であり、従順の対象もイエス様です。つまり、イエス様を信じるというのは、同時に、イエス様に従うことでもあるということです。そして、イエス様に従うというのは、イエス様が主であり、自分が主であるイエス様のしもべであることを認めるということです。

 日本はクリスチャンの少ない国です。だからと言って、イエス様が嫌われているわけではありません。むしろ、イエス様の言葉は良い教えとして広く受け入れられています。イエス様の誕生を記念するクリスマスも、社会の中で完全に定着しています。しかし、そうであるにもかかわらず、イエス様を信じる人は、とても少ないわけです。

 どうしてでしょうか。もしかしたら、その理由の一つは、イエス様を信じるということが、イエス様に従うことでもあるからではないでしょうか。自分なりの信仰なら構わないけれども、従順は勘弁してほしいということではないでしょうか。

 従順というのは、あまり人気のない言葉です。従順が要求されることを、私たちははっきりと嫌います。なぜなら、従順が要求されることは、自由を奪われることを意味しているからです。私たちは自由を大切にしたいわけです。

 しかし、信仰の従順というのは、どういうことでしょうか。それは、信じるからこそ従うということではないでしょうか。決して強制されて従うということではありません。信じるに値する方の言葉だからこそ従うということです。パウロは、その信仰の従順を外国人たちの中にもたらすのだと言っているわけです。そして、それは、イエス様の福音を宣べ伝えることによってです。パウロは、福音の中心であるイエス様、私たちを愛するが故に、十字架にかかって死んで復活されたイエス様を宣べ伝えることによって、信仰の従順をもたらしたいと願っているということです。

 大切なことは何でしょうか。それは、福音の中心であるイエス様に目を向けるということです。福音の中心であるイエス様と出会うということです。十字架を見上げながら、イエス様がどれだけ自分を愛していてくださるかに気づかされることです。そして、そのイエス様を自分の救い主として信じて受け入れ続けることです。イエス様に人生のハンドルを明け渡し続けることです。それは、決して無理やりに従うということではありません。与えられている自由を用いて従うということです。

 繰り返しになりますが、イエス様を信じるというのは、同時に、イエス様に従うことでもあります。あるいは、信仰と従順は、別々のものではなくて、一つのものだと言ってもいいのかも知れません。逆に言うと、イエス様を信じていると言いながら、イエス様に従っていないとすれば、その信仰というのは、根本的に問い直されなければならないということになるのかも知れません。

 もちろん、私たちはいつも完璧にイエス様に従うことができるわけではありません。フラフラとすることがどれほど多いでしょうか。なぜなら、私たちは本質的に従順な者ではなく、不従順な者だからです。しかし、その不従順な私たちを、イエス様は辛抱強く導いていてくださいます。私たちの目を十字架へと向けさせてくださり、イエス様の愛を知るからこそ、イエス様に従って生きる者として、いつも新しくスタートさせてくださいます。

 私たちはどうでしょうか。イエス様を信じるが故に、イエス様に従っているでしょうか。フラフラすることは多いとしても、イエス様ご自身に支えられて、イエス様に従う道を歩んでいるでしょうか。あるいは、最初から信仰と従順がバラバラになっているということはないでしょうか。

 いつも福音の中心であるイエス様を見つめる者でありたいと思います。十字架の死と復活を見つめながら、イエス様の愛を知り、イエス様に従って生きる者でありたいと思います。そして、その私たちの小さな歩みが、イエス様の名前を広めることにつながることを心から願います。

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