礼拝説教から 2020年4月19日

  • 聖書箇所:ローマ人への手紙1章1-7節
  • 説教題:パウロの手紙

 キリスト・イエスのしもべ、神の福音のために選び出され、使徒として召されたパウロから。(ローマ人への手紙1章1節)

 その異邦人たちの中にあって、あなたがたも召されてイエス・キリストのものとなりました―—ローマにいるすべての、神に愛され、召された聖徒たちへ。(ローマ人への手紙1章6-7a節)

0.

 今年に入って、3月の半ば頃まででしょうか。新型コロナウィルスの影響で、スポーツの世界では「無観客試合」というものが行われたりしました。しかし、その後は、無観客どころか、試合自体が延期や中止になっています。

 栗東キリスト教会でも、4月から、「観客」ではなく、「会衆」のいない礼拝となっています。牧師家庭以外のすべての方々には、自宅で礼拝の時間を持っていただいています。観客のいない競技場で試合をするスポーツの選手たちも、独特な雰囲気を味わっておられたと思いますが、集まることを前提としない礼拝の場で説教をするというのも、独特なものだなぁということを感じています。

 共に礼拝する方々がおられないからでしょうか。私は、逆に、神様の前にあることを、普段よりも意識させられているように思います。神様が自分の説教を聞いておられるということを、普段よりも意識しています。あるいは、普段の礼拝で説教をしている時には、自分が神様の前で説教をしていることを、しばしば忘れ去ってしまっていたということなのかも知れません。人の顔を見て、神様を見ていなかったのではないかということに気づかされます。

 昨年の1月から、日曜日の礼拝では、ずっと創世記を見てきました。その創世記も3月末に終わって、今週からローマ人への手紙を見ていきたいと思っています。今日はそのローマ人への手紙1章1-7節を見てみたいと思います。ローマ人への手紙全体の始まりの部分であり、挨拶の部分ということになります。

 神様の前にあることを覚えながら、また、それぞれの家庭で礼拝する方々を覚えながら、今日も神様の御声に耳を傾けていきたいと思います。

1.

 パウロは、何よりもまず、自分のことを「キリスト・イエスのしもべ」と言っています。

 「しもべ」というのは、何でしょうか。それは、要するに、奴隷です。パウロは、自分が奴隷だと言っているということです。

 それでは、奴隷であるというのは、どういうことでしょうか。それは、自分の他に主人がいて、自分はその主人の所有物に過ぎないということではないでしょうか。自分が存在しているのは、自分自身のためではなくて、主人のためだということではないでしょうか。自分で自分の自由を手にしているのではなくて、主人に自由を奪われているということではないでしょうか。そして、それは、決して良いと言えることではありません。奴隷が存在するというのは、決して良いことではありません。

 現在の日本社会には、奴隷という身分の人は存在しません。

 しかし、どうでしょうか。私たちは、誰の奴隷でもないにもかかわらず、他人の目が気になって、不自由極まりない人生を生きているということはないでしょうか。自分の人生であるにもかかわらず、親に認めてほしいために生きている、社会に認めてもらうために生きているということはないでしょうか。あるいは、自分のやりたいように生きているつもりでいて、実は自分でも抑えることのできない欲望に支配されているだけだということはないでしょうか。

 確かに現在の日本社会には、奴隷という身分の人は存在しません。しかし、実際には、社会の中で何らかの束縛を受けている、あるいは、自分で自分を縛っているというのが、私たちの現実ということになるのかも知れません。

 パウロは、自分がキリスト・イエスの奴隷だと言いました。それは、自分が自分の主人ではないということです。自分の主人はイエス様だということです。自分は、自分のものではなくて、イエス様のものだということです。

 繰り返しになりますが、誰かの奴隷であるというのは、決してよいことではありません。しかし、そうであるにもかかわらず、パウロは、自分のことを奴隷だと言いました。そして、パウロは決して奴隷である自分を見て、嘆き悲しんでいるのではありません。むしろ、奴隷であることにこそ、喜びを感じているかのようでもあります。

 どういうことなのでしょうか。

 パウロは手紙の受け取るローマの教会の人々について、「あなたがたも召されてイエス・キリストのものとなりました」と言っています。パウロは、自分だけではなくて、ローマの教会の人々のことも、イエス様のもの、イエス様の奴隷だと言っているということです。

 しかし、そのローマの教会の人々のことを、パウロは続けて何と言っているでしょうか。パウロは、「神に愛され」と言っています。イエス様のものとされたローマの教会の人々は、イエス様の奴隷であるローマの教会の人々は、神様に愛されているのだと言っているわけです。

 イエス様の奴隷であるということ、それは、神様から愛されている、イエス様から愛されていることだということです。そして、それはパウロ自身にも当てはまることです。

 イエス様を信じて教会に集まる私たちは、自分たちのことを「クリスチャン」と言います。それは、「キリストのもの」ということを意味しています。キリストであるイエス様のものということを意味しています。自分が自分の主人なのではなくて、イエス様が自分の主人だということです。自分はイエス様のものであり、イエス様の奴隷だということです。

 繰り返しになりますが、誰かの奴隷であるというのは、決して良いことではありません。しかし、クリスチャンたちは、決して、強制をされて、自分をイエス様の奴隷として受け入れているわけではありません。むしろ、その反対に、喜んで自分をイエス様の奴隷として受け入れているわけです。

 どうしてでしょうか。それは、神様の愛を知ったからではないでしょうか。自分が神様から愛されていることを知ったからではないでしょうか。自分が神様から愛されていることを知ったからこそ、自分が神様のものであることを認め、神様を主人として生きることを、喜んで受け入れているということです。

 今日の本文ではありませんが、ローマ人への手紙5章8節には、<しかし、私たちがまだ罪人であったとき、キリストが私たちのために死なれたことによって、神は私たちに対するご自分の愛を明らかにしておられます。>と書かれています。

 神様の愛、それはイエス様の十字架に示されています。イエス様の十字架を見上げる時、私たちは神様の愛を知ることができます。神様から愛されていることを知ることができます。そして、その愛は、「私たちがまだ罪人であったとき」から与えられていたものであることが分かります。神様を無視し、神様の愛を拒み、神様から離れて生きる罪人の私たちに与えられたものであることが分かります。

 イエス様の十字架に示された神様の愛、それは、私たちが神様から気に入られて与えられたものではありません。私たちが良いことをしたから、熱心に神様を求めているから、神様は私たちを愛してくださっているということではありません。神様は、ご自分を拒み、ご自分に敵対する罪人の私たちを愛してくださっているということです。私たちの存在そのものを、愛していてくださり、受け入れていてくださるということです。私たちが神様との関係の中で、神様に支えられて生きることを願っていてくださるということです。

 パウロは、実は、誰よりも、イエス様を傷つけていた張本人でした。パウロは、誰よりも熱心に、イエス様を信じる人々、新しく誕生した教会を傷つけていた張本人でした。しかし、そのパウロが、逆に、イエス様のことを伝える使徒として選ばれて用いられていたわけです。パウロは、イエス様から愛されて赦されていることを、誰よりも深く味わっていたのではないでしょうか。そして、だからこそ、パウロは、自分のことを、何よりもまず「キリスト・イエスのしもべ」と紹介したのではないでしょうか。

 奴隷でありたいという人は誰もいないでしょう。そして、誰かの奴隷となるのは、決して良いことではありません。

 しかし、神様の奴隷となる時、イエス様の奴隷となる時、私たちの前には、真の愛に支えられて生きる道が開かれていきます。私たちのことを誰よりもよく知っていてくださり、誰よりも愛していてくださる神様ご自身に支えらえて生きる道が開かれていきます。そして、その神様を自分の主人として受け入れて、神様の奴隷として生きる時、自分の存在そのものを受け入れていてくださる神様の愛の中で、私たちは自分を縛りつけているすべてのものから解放されることができます。真の自由を生きることが可能になってきます。大切なことは、神様から愛されていることを知り、神様を自分の主人として受け入れ、神様の奴隷として生きることです。神様はご自分に愛されて生きる私たち一人一人に、恵みと平安を与えてくださいます。

 私たちはどうでしょうか。神様の奴隷として、真の自由の中を歩んでいるでしょうか。あるいは、自由でいるつもりでいて、何かの奴隷になっているということはないでしょうか。

 各家庭で神様を礼拝する一人一人が、そして、今はまだ神様のことを知らない一人一人が、神様の愛を知り、神様の奴隷として生きることができることを、心から願います。そして、神様ご自身に支えられて、平安をいただいて歩むことができることを、心から願います。

コメントを残す