礼拝説教から 2020年4月12日

  • 聖書箇所:コリント人への手紙第一15章50-58節
  • 説教題:死よ、おまえの勝利はどこにあるのか

 ですから、私の愛する兄弟たち。堅く立って、動かされることなく、いつも主のわざに励みなさい。あなたがたは、自分たちの労苦が主にあって無駄でないことを知っているのですから。(コリント人への手紙第一15章50-58節)

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 今日はイースターです。私たちの主イエス様の復活を記念する日です。

 教会は、その始まりの時から、イエス様の復活を記念するイースターを、一年間の歩みの中で、最も重要なこととして考えてきました。なぜなら、教会が毎週の日曜日に集まって礼拝をしてきたのは、イエス様の復活を記念して、喜び祝うためだったからです。教会はイエス様の復活を覚えて、その復活の日である日曜日ごとに集まってきたわけです。イエス様の復活は、私たちが毎週の日曜日に礼拝に集まる根拠となっている出来事であり、私たちの信仰生活を根本的に支えるものだということになるでしょう。

 そのイースターの日を今年も迎えることになりましたが、栗東キリスト教会では、先週に続いて、集まることを控えることになりました。それは、先週も分かち合ったように、私たち自身が守られるためであり、共に生きる大切な人々が守られるためです。神様の愛する人々が守られるためです。

 先週はついに政府から緊急事態宣言が出されました。テレビのニュース番組などでは、感染者の増加と共に、医療体制の崩壊を心配する専門家たちのコメントが繰り返されています。滋賀県でも、感染のピーク時には、入院の必要な人数が7700人に上るという試算が出されたりしています。もちろん、適切な対策によって、その人数をぐっと減らすことができるわけですが、その最も効果的な対策が、残念ながら、「集まらない」ということになります。

 教会はずっとイエス様の復活を記念するイースターを大切にしてきました。イエス様の復活を記念して喜ぶために、毎週の日曜日を「主の日」として、礼拝に集まってきました。その「主の日」の礼拝に集まることができないのは、とても残念なことですが、離れてはいても、私たち教会は、主イエス・キリストを頭とする一つの体であることを、今日も覚えたいと思います。そして、共に神様の御声に耳を傾けながら、主イエス・キリストを喜び、心を一つにして祈りたいと思います。新型コロナウィルスの終息のために、祈っていきたいと思います。

1.堅く立って、動かされることなく

 今日の本文であるコリント人への手紙第一15章50-58節に記されているのは、イエス様が復活された場面ではありません。しかし、イエス様の復活によってもたらされたものが説明されています。それは、死に対する完全な勝利ということです。その勝利はイエス様の復活によって実現したということです。そして、その死に対するイエス様の勝利が、イエス様を信じるすべての人々に与えられているということです。

 パウロは、そのイエス様の勝利と、その勝利が自分たちにも与えられていることを告げた上で、最後に力強い勧めと励ましの言葉を与えました。それは、「堅く立って、動かされることなく、いつも主のわざに励みなさい」ということです。その労苦は「主にあって無駄でない」ということです。

 パウロは、「堅く立って、動かされることなく」と言っています。どういうことでしょうか。それは、コリントの教会の人々が堅く立っていなかったということではないでしょうか。とてもフラフラしていたということではないでしょうか。

 新約聖書はギリシア語で書かれましたが、新改訳2017で「堅く立って」と訳されているギリシア語の単語には、「坐っている」という意味があります。不思議なことに、「立っている」ではなくて、「坐っている」です。実際に、新改訳2017で「堅く立って」と訳されている部分は、フランシスコ会訳では「しっかり腰を据え」と訳されています。

 「堅く立つ」と言うと、どうでしょうか。例えば、堅く立っているためには、私たちの強い決意や努力が大切になってくるのではないでしょうか。

 しかし、「腰を据える」と言うと、どうでしょうか。腰を据えるというのは、落ち着いているということです。あるいは、落ち着いているからこそ、しっかりと腰を据えることができるということになるのかも知れません。そして、落ち着くために何よりも大切なことは、私たちの強い決意や努力ではありません。なぜなら、私たちが落ち着くことのできる根拠は、外側から与えられるものだからです。そして、パウロは、その落ち着くことのできる根拠を、示してきたということになります。それが、イエス様の復活であり、死がイエス様の勝利に呑み込まれたということです。そのイエス様の勝利が、イエス様を信じるすべての人々に与えられているということです。パウロは、「死者の復活」に関する問題で、フラフラとしているコリントの教会の人々に対して、死に対するイエス様の勝利を示し、そのイエス様の勝利が自分たちにも与えられていることを示しながら、「落ち着きなさい」と励ましているということです。

 そして、その上で、パウロは改めて、「主のわざに励みなさい」と命じています。

 「主のわざに励む」と言うと、どうでしょうか。私たちは、もしかしたら、一生懸命に奉仕をしたり、熱心に伝道をしたり、たくさんの献金をしたりということをイメージするかも知れません。もちろん、奉仕や伝道、献金はとても大切なことです。

 しかし、ヨハネの福音書6章に記されたイエス様の言葉を合わせて見る時、「主のわざに励む」というのは、必ずしも特定の何かをすることではないということになるのかも知れません。

 イエス様の奇跡を経験した群衆は、「神のわざを行うためには、何をすべきでしょうか」と尋ねました。その質問に対して、イエス様は「神が遣わした者をあなたがたが信じること、それが神のわざです」と答えられました。

 「神が遣わした者」、それはイエス様のことです。そして、そのイエス様を信じることそのものが、「神のわざ」だと、イエス様は答えられました。

 イエス様を信じるというのは、どういうことでしょうか。それは、ある時に信じたら、それで終わりということではありません。信じるというのは、信じ続けるということです。信じて生きるということです。そして、イエス様を信じて生きるというのは、イエス様を愛することであり、隣人を愛することです。それは、喜びではありますが、同時に、労苦を伴うものでもあります。

 しかし、今日の本文の中で、パウロが最後に言っていることは、何でしょうか。それは、自分たちの労苦が決して無駄にはならないということです。イエス様と共に生きる歩みには、たとえ労苦があるとしても、その労苦は決して無駄にならないということです。

 繰り返しになりますが、新型コロナウィルスの感染が急速に拡大しようとしている状況の中で、栗東キリスト教会では、先週から礼拝に集まることを控えています。そして、いつ礼拝を再開することができるか、その見通しは立っていません。今日は礼拝に集まっている教会も、来週はどうなるか分からない状況です。それは、私たちにとって、とても不安な状況です。牧師である私などは、「教会がバラバラになってしまうのではないか、これまでの歩みがすべて無駄になってしまうのではないか」という不安を抱いたりします。死の底力のようなものを、改めて見せつけられているような気がします。

 現在の私たちが置かれている状況はとても厳しいものです。しかし、コリントの教会の人々に語られたパウロの言葉は、現在の私たちにも語られていることを覚えたいと思います。

 神様は、礼拝に集まることができないような状況にある私たちにも、イエス様の復活を告げていてくださいます。死に対するイエス様の完全な勝利を告げていてくださいます。イエス様の勝利が私たちにも与えられていることを告げていてくださいます。そして、そのイエス様の勝利の土台の上に立たせていただく時、私たちは腰を据えることができます。主イエス様を信じて、落ち着いて、イエス様と共に歩むことができます。もちろん、その「主のわざ」に励む私たちの歩みを、イエス様は導いていてくださいます。

 集まることが難しい状況の中にありますが、私たちのすべてがイエス様の勝利をいただいていることを覚えたいと思います。そして、イエス様の勝利の土台の上で、腰を据えることができることを願います。落ち着いて、イエス様と共に歩むことができることを心から願います。イエス様を愛し、様々な形で隣人を愛したいと思います。

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