礼拝説教から 2020年4月5日

  • 聖書箇所:ヨハネの福音書12章20-26節
  • 説教題:地に落ちて死ぬ一粒の麦

 まことに、まことに、あなたがたに言います。一粒の麦は、地に落ちて死ななければ、一粒のままです。しかし、死ぬなら、豊かな実を結びます。(ヨハネの福音書12章24節)

 わたしに仕えるというなら、その人はわたしについて来なさい。わたしがいるところに、わたしに仕える者もいることになります。わたしに仕えるなら、父はその人を重んじてくださいます。(ヨハネの福音書12章26節)

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 新型コロナウィルスの感染拡大が、日本でも急速に進んでいます。まだ、感染の爆発的な増加は起こっていないと判断されていますが、感染の爆発的な増加が起こる前から、医療体制が崩壊すると心配されています。

 また、先週は、滋賀県でも初めての集団感染が確認されました。私たちの教会がある栗東市でも、感染者が確認されました。新型コロナウィルスの脅威が、本当に身近な所にまで迫ってきていることを実感させられています。

 そのような中で、栗東キリスト教会では、今日は集まって礼拝することを中止にしました。来週以降も、集まることができるかどうかは分かりません。

 教会として、日曜日の礼拝に集まることができないのは、とても残念なことです。しかし、私たち自身が守られ、共に生きる人々、家族、学校や職場の人々、地域の人々が守られるためには、必要な対応の一つではないかということを思います。なぜなら、私たちを愛していてくださる神様は、私たちと共に生きる人々をも、同じように愛しておられるからです。神様に愛される人々が守られるために生きることは、すでに神様の愛を知っている私たちの使命だと考えるからです。

 集まることができないのは、とても残念なことですが、この事態のすべてを御手の中に置いておられる神様が、最善へと導いていてくださり、私たちを守り支えていてくださることを覚えながら、離れてはいても、心を一つにして、神様を礼拝していくことができればと思います。そして、速やかな終息のために、祈っていきたいと思います。

1.地に落ちて死ななければ

 イエス様がエルサレムの都に入られた後、イエス様にお目にかかりたいというギリシア人たちが訪ねて来ました。ギリシア人たちの願いを聞いた弟子のピリポは、アンデレと共に、イエス様の所に行って話しました。そして、その弟子たちに、イエス様は、ご自分が栄光を受ける時が来たと答えられました。

 栄光を受けると言うと、私たちはとても華やかな場面をイメージするかも知れません。しかし、イエス様ご自身の言葉を見る時、イエス様のが語られた栄光というのは、ちょっと違うことに気づかされます。

 イエス様は、「一粒の麦は、地に落ちて死ななければ、一粒のままです。しかし、死ぬなら、豊かな実を結びます」と言われました。イエス様は、ご自分が栄光を受けることの説明として、一粒の麦の話をされました。一粒の麦が地に落ちて死ぬのだと言われました。そして、それは、イエス様が十字架に上げられようとしていることに他なりません。つまり、イエス様は、ご自分が十字架に上げられて死ぬことを、ご自分の栄光と説明されたということです。

 イエス様は、一粒の麦が「地に落ちて死ななければ」と言われました。イエス様は、ただ単に、一粒の麦が地に落ちて「死ぬなら」、豊かな実を結ぶと言われたのではありません。単なる一般論として、一粒の麦が地に落ちて「死ぬなら」、豊かな実を結ぶと言われたのではありません。その前に、一粒の麦が「地に落ちて死ななければ」と言われました。

 何気ないことですが、どういうことでしょうか。それは、一粒の麦が必ず地に落ちて死ななければならないということではないでしょうか。一粒の麦は、地に落ちても落ちなくても、どちらでもいいということではなくて、必ず地に落ちなければならないということではないでしょうか。しかも、地に落ちて死なないという選択肢が残されている上で、敢えて、地に落ちて死ぬことを選択しなければならないということではないでしょうか。

 どうしてでしょうか。それは豊かな実が結ばれるためではないでしょうか。豊かな実が結ばれるために、一粒の麦は必ず地に落ちて死ななければならないということです。落ちても落ちなくても、どちらでもいいということではなくて、必ず地に落ちて死ななければならないということです。

 イエス様は、まさにその一粒の麦として地に落ちてくださいました。もちろん、地に落ちて死ぬ以外の道を選択することもできたわけです。しかし、敢えて、地に落ちて死ぬ一粒の麦となってくださいました。豊かな実が結ばれるために、地に落ちて死ぬ一粒の麦となってくださいました。そして、イエス様が地に落ちて死ぬ一粒の麦となってくださった結果として、現在の私たちが礼拝の場に集められています。イエス様の命をいただいた者として、イエス様と共に生きる者として、礼拝の場に集められています。

 イエス様が、地に落ちて死ぬ一粒の麦となってくださったこと、十字架に上げられてくださったこと、それは決して当たり前のことではありません。地に落ちないという選択、十字架に上げられないという選択もあった中で、敢えて、地に落ちてくださいました。十字架に上げられてくださいました。そして、それは、イエス様が私たちを愛されたということに他なりません。イエス様は、私たちを特別に愛されたからこそ、私たちが豊かな実として結ばれることを願われたからこそ、地に落ちる一粒の麦になってくださったということです。私たちにご自分の命を与えてくださったということです。

 今日は特に受難週の始まる日です。その受難週が始まる今日、地に落ちて一粒の麦となるために、十字架へと向かわれるイエス様の歩みを、改めて見つめたいと思います。そして、他の道もある中で、敢えて、私たちが豊かな実として結ばれるために、一粒の麦として地に落ちる道を選んでくださったイエス様の愛を、深く覚えたいと思います。

2.わたしに仕えるというなら

 イエス様は、弟子たちに対して、「わたしに仕えるというなら」と言われました。そして、それは、弟子たちが、イエス様に仕えることを願っていたということを示しています。弟子たちは、イエス様に仕えることを願っていたからこそ、イエス様について来ていたわけです。イエス様と共にいたわけです。

 しかし、ヨハネの福音書や他の福音書を続けて見ていく時に、明らかになることは何でしょうか。それは、イエス様が十字架にかかられた時、イエス様に仕えることを願っていたはずの弟子たちは、一人残らず逃げ去っていたということです。弟子たちは誰もイエス様について行くことができなかったということです。イエス様のおられる所には、いることができなかったということです。そして、それは、弟子たちが、結局は自分の命を愛したということを意味しています。イエス様にハンドルを委ねて、イエス様に仕えることを止めたということです。

 イエス様は、自分の命を愛する者が、その命を失うと言われました。そうであるならば、弟子たちは、自分の命を愛する者として、自分の命を失わなければならなかったでしょう。しかし、弟子たちは生かされました。しかも、ただ単に、生かされただけでなく、後に、新しく誕生した教会の中で、リーダーとして用いられていくことになりました。

 どうしてでしょうか。それは、イエス様が、ご自分を捨てて逃げてしまうような弟子たちのためにも、十字架にかかってくださったからではないでしょうか。イエス様が十字架にかかられたのは、イエス様を捨てて逃げるような弟子たちの罪をも赦されるためだったからではないでしょうか。弟子たちは、そのイエス様の赦しに支えられながら、最後までイエス様に仕える生涯をまっとうしたということです。そして、神様から重んじられる者になったということです。

 イエス様について行くこと、最後までイエス様に仕えること、それは、私たちの目にはとてつもなく難しいことのように見えるかも知れません。イエス様と共に、十字架への道を歩むなんて、とてもできないと思うかも知れません。

 しかし、イエス様は決してできないことを要求されるような方ではありません。イエス様は、できることを要求されるわけです。そして、ただ単に、要求されるだけではなくて、その要求を私たちがまっとうすることができるように、助けていてくださるということです。イエス様は、私たち一人一人に「ついて来なさい」と招いておられると共に、具体的な助けの手をいつも差し出していてくださるということです。大切なことは、そのイエス様に支えられながら、イエス様について行くということです。

 私たちはどうでしょうか。

 イエス様の受難を覚えるこの一週間、私たちを覚えて十字架にかかってくださったイエス様ご自身に支えられて、イエス様と共に、十字架への道を歩むことができればと思います。そして、それがこの一週間のことだけではなくて、私たちの生涯の歩みとなることを心から願います。

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