礼拝説教から 2020年3月29日

  • 聖書箇所:創世記50章
  • 説教題:神の代わりになることはできない

 ヨセフは言った。「恐れることはありません。どうして、私が神の代わりになることができるでしょうか。あなたがたは私に悪を謀りましたが、神はそれを、良いことのための計らいとしてくださいました。それは今日のように、多くの人が生かされるためだったのです。(創世記50章19-21節)

 父親であるヤコブが死ぬと、ヨセフの兄たちは今後のことが不安になったようです。それは、弟のヨセフが自分たちに仕返しをするのではないかという不安です。

 17年前、ヨセフはすでに兄たちを赦していました。ヨセフは、兄たち一人一人に口づけをして、兄たち一人一人を抱いて泣きました。12人の兄弟たちは皆で語り合いました。それは感動的な和解の場面でした。

 しかし、父親であるヤコブの死を見届けた後、ヨセフの兄たちは改めて不安を感じたということです。「お父さんが生きている間は、赦したふりをしていたかも知れないが、もしかしたら、まだ恨んでいるかも知れない。」「お父さんを悲しませないために、赦したふりをしていただけで、お父さんが死んでいなくなった今、仕返しをしてくるかも知れない。」

 ヨセフの兄たちは、ヨセフに使いを送って言いました。それは、死ぬ前のヤコブがヨセフに命じていたという言葉です。『ヨセフにこう言いなさい。おまえの兄弟たちは、実に、おまえに悪いことをしたが、兄弟たちの背きと罪を赦してやりなさい、と。』 そして、このヤコブの言葉を土台として、ヨセフの兄たちは、ヨセフに赦しを願いました。

 その兄たちに対して、ヨセフは「恐れることはありません」と言いました。仕返しを恐れる兄たちに対して、繰り返して「恐れることはありません」と訴えました。そして、兄たちとその子どもたちを養うことを約束しながら、不安になっている兄たちを安心させるために、優しく語りかけました。兄たちの不安とは反対に、父親の存在とは関係なく、ヨセフは兄たちを完全に赦していたことが分かります。

 ヨセフはどうして兄たちを完全に赦すことができたのでしょうか。それは、ヨセフが父なる父なる神様との関係の中で生きていたからではないでしょうか。

 ヨセフは、恐れることはないと言いながら、「どうして、私が神の代わりになることができるでしょうか」と言いました。

 どういうことでしょうか。それは、罪を裁くことができるのは神様だけだということではないでしょうか。そして、自分はその罪を裁くことのできる神ではないということではないでしょうか。ヨセフは、罪を裁くことのできる神様が、兄たちの悪を良いことのための計らいとしてくださったことを、受け入れていたということではないでしょうか。ヨセフには、神様ご自身が、赦しておられ、良いことのために用いられた兄たちを、人間に過ぎない自分が今になって裁くことはできなかったということではないでしょうか。

 創世記の最初の部分には、人間が罪を犯した場面が描かれています。それは人間が「神のように」なろうとした場面です。土から造られた者に過ぎない人間が「神のように」なろうとする、これが罪の本質だということでした。神様を神様として認めないで、神様に支えられて生きることを拒んで、自分自身が「神のように」なろうとする、これが聖書の語る人間の罪ということでした。そして、その罪によって、神様と人間の関係は壊れてしまいました。それだけではなくて、神様が造られた最初の人間、アダムとエバの関係も壊れてしまいました。

 土から造られたに過ぎない人間が「神のように」なろうとする罪、それは関係を破壊します。神様と私たちの関係を破壊し、私たち人間と人間の関係を破壊します。そして、すべての人間が罪人であるというのは、私たちすべてが「神のように」なろうとする罪の誘惑を受けていることを意味しています。

 ヨセフと兄たちの関係は守られました。それは、ヨセフが神様との正しい関係の中に生きていたからです。ヨセフは、神様との正しい関係の中で、自分もまた神様の裁きを受ける罪人の一人に過ぎないことを覚えて生きたということです。そして、だからこそ、神様が赦して用いてこられた罪人の兄たちを、自分を苦しめた兄たちを、改めて赦すことができたということです。兄たちとの関係が守られたということです。

 創世記全体を通して、聖書全体を通して語られている大切なことは、何でしょうか。それは、神様を神様として認めて生きるということではないでしょうか。神様がこの全世界を造られた方であることを認め、私たちがその神様によって造られた者に過ぎないことを認めて生きるということではないでしょうか。そして、その神様が私たち一人一人を愛して支えていてくださることを覚えることではないでしょうか。

 毎週日曜日の礼拝は、その神様と私たちとの正しい関係が、回復され、深められていくために、十字架にかかって死に復活してくださった主イエス・キリストを見上げて喜ぶ時です。主イエス・キリストによって、回復され、深められる、神様と私たちとの正しい関係を確認して、新しく出発していく場です。

 私たちはどうでしょうか。神のようになろうとしていることはないでしょうか。神の代わりになって、裁こうとしていることはないでしょうか。そして、関係の破壊を招いていることはないでしょうか。

 毎週の礼拝の中で、そして、日々の歩みの中で、十字架にかかって死に、復活されたイエス様を見上げたいと思います。神様との正しい関係の中に生かされる者でありたいと思います。そして、その神様との正しい関係の中で、私たち人間同士の関係の回復や深まりにもつながっていくことを願います。

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