礼拝説教から 2020年3月22日

  • 聖書箇所:創世記49章
  • 説教題:それぞれにふさわしい祝福

 これらはすべてイスラエルの部族で、十二であった。これは、彼らの父が彼らに語ったことである。彼らを祝福したとき、それぞれにふさわしい祝福を与えたのであった。(創世記49章28節)

 ヤコブは死ぬ間際に12人の子どもたちを集めました。そして、12人の子どもたち一人一人について、「終わりの日」に「起こること」を語りました。良いことを語ってもらった子どもたちもいれば、良くないことを語られた子どもたちもいました。たくさんのことを語ってもらった子どもたちもいれば、簡単にしか語ってもらえなかった子どもたちもいました。

 ヤコブの言葉の後、子どもたちは何を思ったでしょうか。がっかりしたでしょうか。喜んだでしょうか。良いことを語ってもらった者は、傲慢になったり、他の者を軽んじたりしたでしょうか。良いことを語ってもらえなかった者は、良いことを語ってもらった者を妬んだりしたでしょうか。

 今日の本文には、子どもたちの反応については何も記されていません。しかし、「その代わりに」かどうかは分かりませんが、ヤコブが語ったことについて、簡単でありながら、ちょっと印象深い説明が付け加えられています。それは、ヤコブが子どもたち一人一人について「終わりの日」に「起こること」を語ったのは、祝福だったということです。しかも、それは「それぞれにふさわしい祝福」でした。

 今日の本文を見る時、ヤコブが子どもたちに与えた祝福というのは、何か成功を収めるとか、輝かしい未来を手にするというようなことではないことが分かります。なぜなら、神様の祝福は、長男の権利を失うような者にも、怒りや憤りに満たされているような者にも、子孫の中から歴代の王が出てくるような者にも、同じように与えられているからです。神様の祝福は、様々な人生を歩むことになる12人の子どもたち一人一人に、相応しい形で与えられたわけです。12人の子どもたちは、それぞれが自分に相応しい祝福を受け取ったということです。そして、それは「信仰によって」ということになるのだと思います。

 神様を信じるというのは、どういうことでしょうか。その一つの意味は、神様から自分に相応しい祝福が与えられていることを受け入れ続けていくことではないでしょうか。他の人々にも同じ神様からの相応しい祝福が与えられていることを受け入れ続けていくことではないでしょうか。そして、それは、目に見えるものを基準にして、神様の祝福を判断しようとする時にはできないことです。何も思い通りに事が進まないとか、安定した生活を送っているとか、そのような目に見える基準に囚われる時、私たちは神様から与えられている祝福、それぞれに相応しい祝福を受け入れることができなくなります。しかし、私たちのために十字架にかかってくださったイエス様を見上げる時、私たちには、それぞれに相応しい祝福がいつも与えられていることを確信して受け入れることができます。

 ローマ人への手紙8章32節には、<私たちすべてのために、ご自分の御子さえも惜しむことなく死に渡された神が、どうして、御子とともにすべてのものを、私たちに恵んでくださらないことがあるでしょうか。>とあります。全世界をお造りになられた神様は、御子である主イエス様を、私たちすべてのために与えてくださいました。真の神であり、真の人であるイエス様が、私たちの世界にお生まれになり、十字架にかかって、私たちのためにご自分の命を与えてくださいました。そして、この十字架にかかられたイエス様を見上げる時、私たちはイエス様が私たちそれぞれの人生に必要なすべてを与えていてくださることが分かります。私たちを見守り支えていてくださることが分かります。一寸先も見通すことのできない私たちの人生を最善へと導いていてくださることが分かります。そして、そのイエス様の与えられていることそのものが、私たちにとって、何よりの祝福であることが分かります。なぜなら、私たち自身は、小さくて弱いとしても、欠けだらけであるとしても、私たちにご自分を与えてくださったイエス様は、私たちのすべてを満たしてくださる方だからです。

 私たちはどうでしょうか。神様が私たち一人一人に与えてくださっている祝福、それぞれに相応しい祝福を受け取って満足しているでしょうか。私たちを愛するが故に、十字架にかかってくださったイエス様が、いつも共にいてくださる祝福を喜んでいるでしょうか。その祝福を互いに喜び合っているでしょうか。あるいは、何があるとかないとか、何ができるとかできないとか、目に見えるものを基準にして、神様の祝福を判断しているようなことはないでしょうか。そして、大喜びしたり、落ち込んだりしていることはないでしょうか。

 毎週の礼拝の中で、そして、日々の歩みの中で、イエス様の十字架を見上げたいと思います。十字架にかかって、ご自分を私たち一人一人に与えてくださったイエス様を見上げたいと思います。そして、そのイエス様が今も生きておられ、いつも共にいてくださる祝福が、私たち一人一人に、最も相応しい形で与えられていることを信じて受け取り続けたいと思います。祝福に満ちた人生を喜んで歩みたいと思います。

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