礼拝説教から 2020年3月1日

  • 聖書箇所:創世記46章
  • 説教題:父子の再会

 イスラエルはヨセフに言った。「もう今、私は死んでもよい。おまえがまだ生きていて、そのおまえの顔を見たのだから。」(創世記46章30節)

 ヤコブは、もう死んでも良いと言いました。もう十分だということです。もう満足したということです。そして、それは、死んだと思っていた息子のヨセフがまだ生きていて、その顔を見ることができたからだということです。

 ヤコブは、息子のヨセフが生きていることに満足しました。死んだと思っていた息子の生きている顔を見て、それで満足しました。ヤコブは、息子がエジプトの偉いさんになったことを喜んだとか、年寄りの自分を養ってくれることに感動したというのではありません。そうではなくて、ヤコブは、ただ息子が生きていただけで、満足して喜んだということです。死んだと思っていた息子の生きている顔を見て確認することができただけで、満足して喜んだということです。ヤコブは、息子が何をしたとか、何になったとかということではなくて、ただ生きていることそのものを喜んだということです。何の条件もなく、ただ息子の存在そのものを喜んだということです。

 どうでしょか。私はヤコブとヨセフが再会する場面を見て、「子どもを愛する親の姿というのは、こういうものなんだなぁ」ということを感じさせられます。そして、聖書全体を見る時、ヨセフの無事を喜ぶヤコブの姿というのは、私たちを愛する父なる神様の姿でもあるということを思います。神様もまた、生きている息子の顔を見て満足したヤコブのように、死んだと思っていた息子との再会を喜んだヤコブのように、私たちの顔を見たいと願っておられるということです。離れていった私たちとの再会を待ち望んでおられるということです。見失ってしまった私たちとの再会を待ち望んでおられるということです。

 大切なことは何でしょうか。それは、ただ私たちの顔を神様の方へと向けることではないでしょうか。「お父ちゃん、帰ってきたよ」と言って、父なる神様の御顔を仰ぎ見ることではないでしょうか。ただ父なる神様との再会を喜ぶことではないでしょうか。そして、それが礼拝の本質だと言っても間違いではないでしょう。私たちと神様との関係の本質だと言ってもいいでしょう。必死に招き続けていてくださる神様の方に、私たちの顔を向けて、神様との出会いと交わりを喜ぶことが、礼拝の本質であり、私たちと神様との関係の本質だということです。

 私たちの礼拝はどうでしょうか。私たちと神様との関係はどうでしょうか。神様との出会いと交わりそのものが喜びとなっているでしょうか。神様との出会いと交わりそのものが目的となっているでしょうか。

 毎週日曜日の礼拝の中で、神様がただ私たちの顔を見たいと願っておられることを覚えたいと思います。ただ私たちに帰って来てほしいと願っておられることを覚えたいと思います。帰って来る私たちを、そのままに受け入れて喜んでいてくださることを覚えたいと思います。そして、私たちをそのままに受け入れてくださっている神様との出会いと交わりを、私たちの方でもまた喜びたいと思います。喜んで神様を賛美したいと思います。その出会いと交わりが私たちの生きる力となることを心から願います。

コメントを残す