礼拝説教から 2020年2月23日

  • 聖書箇所:創世記45章
  • 説教題:大いなる救い

 彼は弟ベニヤミンの首を抱いて泣いた。ベニヤミンも彼の首を抱いて泣いた。彼はまた、兄弟みなに口づけし、彼らを抱いて泣いた。それから兄弟たちは彼と語り合った。(創世記45章14-15節)

 神様の大いなる救いの御心を語ったヨセフは、父親のヤコブを急いで連れて来るように言いました。ヤコブも、兄弟たちも、自分が養うということを言いました。そして、最後に、ヨセフは弟のベニヤミンと兄弟全員を抱き寄せて泣きました。実に感動的なクライマックスの場面です。

 この感動的なクライマックスの場面は、「それから兄弟たちは彼と語り合った」という言葉で締めくくられています。ヨセフと兄弟たちは何を語り合ったのでしょうか。もしかしたら、「『あの時は本当に辛かった』、『本当に悪かったな』、『いやいや、もういいんだよ』」というようなやりとりがあったでしょうか。あるいは、カナンに残っている父親のヤコブのことが語られたりしたでしょうか。ヨセフのエジプトでの経験が語られたりしたでしょうか。今日の本文には、ヨセフと兄弟たちが語り合った内容については、何も記されていません。しかし、その内容がいずれであるにしろ、それは、実に親密な語り合いであったと想像することができます。

 「それから兄弟たちは彼と語り合った。」実にさりげなく記されていますが、どうでしょうか。私はちょっと意味深だなぁということを思いました。それは、その語り合いが兄弟たちからのものであるからです。ヨセフが兄弟たちと語り合ったということではなくて、兄弟たちがヨセフと語り合ったということです。

 ヨセフが自分の正体を明かした後、兄弟たちは何も言うことができませんでした。ずっと、ヨセフの語る言葉を聞いていました。兄弟たちは、ヨセフの口づけを受けて、ヨセフから抱き寄せられて、「それから」初めて口を開いたということです。ずっと沈黙を守ってきた兄弟たちが、やっと口を開いて、自分たちの方からヨセフと語り合ったということです。

 どういうことでしょうか。もしかしたら、兄弟たちはずっと不安だったのではないでしょうか。神様の大いなる救いを語るヨセフの言葉を聞きながらも、ずっと不安だったのではないでしょうか。ヨセフが本当の所は自分たちのことをどう思っているのかが分からなくて、ずっと不安だったのではないでしょうか。だからこそ、ヨセフの口づけを受けて、泣きながら抱き寄せられて、やっと安心することができたということではないでしょうか。ヨセフが赦してくれていることを確信して、受け入れていてくれることを確信して、やっと安心して、ヨセフと語り合うことができたということではないでしょうか。

 兄弟たちは、確かに変わっていました。神様の前で自分たちの罪を認めていました。神様を恐れて、神様との関係の中に生きていました。

 しかし、ヨセフが自分の正体を明かした場面を見る時、兄弟たちの心の中には、どこか不安があったということになるのではないでしょうか。そして、その不安は、赦されている確信がなかったという所から来ていたのかも知れません。受け入れられている確信がなかったという所から来ていたのかも知れません。どんなに変わったとしても、いつかは神様の裁きを受けることになるかも知れないという不安があったのかも知れません。兄弟たちにとって、神様はどこか恐ろしい裁きの神のようなイメージがあったと言えるのかも知れません。

 しかし、その兄弟たちがヨセフを通して経験したことは何でしょうか。それは、自分たちが赦されているということではないでしょうか。完全に受け入れられているということではないでしょうか。しかも、それは、自分たちが悔い改めるもっと前からのことだったということではないでしょうか。兄弟たちは、自分たちが悔い改めるもっと前から、初めから、神様が自分たちの救いを願っていてくださったことに気づいたということです。その神様の御心を、ヨセフの言葉と行動によって確信して、やっと安心することができたということです。兄弟たちに必要だったのは、他でもなく、神様ご自身から赦されている、完全に受け入れられているという事実であり、その確信だったということです。そして、それは、現在の私たちにとっても同じです。

 私たちはどのように神様を見ているでしょうか。信じるにしろ、信じないにしろ、神様はどこか怖い存在だったりするでしょうか。怖い神様の前で不安になったりしていることはないでしょうか。

 新約聖書のローマ人への手紙5章8節を見てみます。<しかし、私たちがまだ罪人であったとき、キリストが私たちのために死なれたことによって、神は私たちに対するご自分の愛を明らかにしておられます。> 神様は、私たちが罪人だった時から、私たちを愛していてくださいました。私たちが、神様に関心がなかったり、積極的に神様を嫌ったりしている時から、神様は、私たちを愛していてくださいました。私たちを見つめていてくださり、私たちと共に生きることを願っていてくださいました。だからこそ、御子イエス様が十字架にかかってくださいました。私たちは、十字架にかかってくださったイエス様を見上げる時、神様が初めから私たちを愛していてくださったことを確信することができるということです。

 十字架にかかられたイエス様を見上げながら、決して変わることのない神様の愛を、いつも確信させていただきたいと思います。神様に完全に受け入れられていることを確信しながら、平安をいただきたいと思います。そして、その神様との関係に支えられて、安心することのできる関係に支えられて、目に見える隣人との関係を大切にしていきたいと思います。時に、傷つけたり傷つけられたりする隣人との関係に、赦し赦される必要がある隣人との関係に、誠実でありたいと思います。

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