礼拝説教から 2020年2月16日

  • 聖書箇所:創世記44章
  • 説教題:神の前に立つユダ

 ユダが答えた。「あなた様に何を申し上げられるでしょう。何の申し開きができるえしょう。何と言って弁解することができるでしょう。神がしもべどもの咎を暴かれたのです。今このとおり、私たちも、そして、その手に杯が見つかった者も、あなた様の奴隷となります。」(創世記44章16節)

 ヨセフの兄弟たちは、エジプトに到着すると、どういうわけか、ヨセフの家に招かれて、ヨセフと昼食を共にしました。ヨセフにとっては、誰よりも会いたかった弟のベニヤミンと、ついに再会することのできた感動の場面です。反対に、ヨセフの正体を知らない兄弟たちにとっては、大きなもてなしを受けながら、不安と緊張の時間が続きます。創世記を見ている現在の私たちにとっても、ドキドキの場面ということになるかも知れません。

 その不思議なもてなしを受けた後、ヨセフの兄弟たちがカナンの地に帰って行く時に事件が起こりました。具体的には、ベニヤミンに盗みの疑いがかけられたということです。兄たちと一緒にカナンの地に帰って行くベニヤミンの袋の中にだけ、ヨセフの使っている銀の杯が入っていたのでした。そして、銀の杯を盗んだとされるベニヤミンだけがエジプトで奴隷にされようとしています。それは、ベニヤミンを必ず連れて帰ると約束していたユダや他の兄弟たちにとっては、あってはならないことでした。

 ヨセフは自分の前にひれ伏す兄弟たちに問い詰めました。「おまえたちの、このしわざは何だ。私のような者は占いをするということを知らなかったのか。」

 真の神様を信じて恐れるヨセフが、占いをするということはないでしょう。しかし、占いをするという言葉を聞いた兄弟たちの方では、もしかしたら、「すべてが見通されている」という印象を持つことになったかも知れません。すべてを見通しているヨセフの前で、兄弟たちは下手な言い訳すらできないような状況に追い込まれたということになるのかも知れません。

 その中で、ユダがユダが代表して答えました。そして、ユダは何の弁解もしませんでした。下手な言い訳をまったくしませんでした。しかし、それは、占いによって、すべてを見通しているヨセフを恐れたからということではなさそうです。

 ユダは、「神がしもべどもの咎を暴かれたのです」と言いました。ヨセフではなくて、神様が咎を暴かれた、だからこそ、一切の下手な言い訳をしないということです。そして、ユダが咎と言う時、それは、かつて自分たちがヨセフを殺そうとしたことに他なりません。

 ユダは目の前にいるヨセフがヨセフであることを知りません。エジプトで穀物を売っている責任者が、まさか自分たちの弟であるヨセフだとは、夢にも思っていません。穀物を売る責任者は、自分たちとは赤の他人であるわけです。そして、その赤の他人の前で、自分たちが弟を殺そうとした昔の出来事を気にする必要は、何もないわけです。ユダと他の兄弟たちにとって、必要なことはただ自分たちの潔白を証明することだけでした。実際に、彼らは何も後ろめたいことをしていないわけです。そうであるにもかかわらず、ユダは一切の言い訳をしませんでした。そして、その理由として、神様が自分たちの咎を暴かれたと言っているということです。

 どういうことでしょうか。それは、ユダがずっと自分たちの咎を意識してきたということではないでしょうか。神様の前では、自分たちの咎が明らかにされていることを弁えていたということではないでしょうか。そして、ユダはその神様の前に立っていたということではないでしょうか。ユダは、ただ単にヨセフの前に立っていただけではなくて、すべてを見通しておられる神様の前に立っていたということです。そして、もし、神様がヨセフを通して何らかの裁きを下そうとされているのだとすれば、そのままに受け入れるつもりでいたということではないでしょうか。だからこそ、銀の杯の見つかったベニヤミンだけではなくて、自分たち全員がヨセフの奴隷になると宣言したのではないでしょうか。ユダは神様のどのような裁きをも受けるつもりで、ヨセフの奴隷になる宣言をしたということです。ユダは、ヨセフの前に立つと同時に、まさに神様の前に立っていたのでした。神様を恐れて、神様との関係の中に生きていたのでした。

 もちろん、神様は目に見える方ではありません。ユダが神様の前に立っていたとは言っても、ユダの目に神様が見えていたわけではありません。しかし、確かにユダは神様を見上げていました。そして、神様の前に立っていました。

 新約聖書のコリント人への手紙第二4章18節には、<私たちは見えるものにではなく、見えないものに目を留めます。見えるものは一時的であり、見えないものは永遠に続くからです。>とあります。使徒パウロは「見えないもの」に目を留めるのだと言いました。あるいは、「見えないものにこそ、目を留める」のだと言っているかのようでもあります。それは、「見えないものに目を留めることこそが大切だ」ということを意味しています。

 神様は私たちの目には見えません。しかし、その見えない神様に目を留める時、私たちは見えない神様の確かな救いの土台の上に立たせていただくことができます。見えない神様の確かな約束の言葉を聞きながら、永遠につながる希望をいただくことができます。そして、目の前の状況に左右される必要がありません。目の前の状況を恐れたり、目の前の誰かを恐れたりする必要がありません。大切なことは、信仰を持って、見えない神様に目を留めることであり、見えない神様の前に立つということです。

 私たちはどうでしょうか。どこに目を留めているでしょうか。どこに立っているでしょうか。見えない神様でしょうか。見えない神様に目を留めて、その神様の前に立っているでしょうか。あるいは、ただ単に、見える人や物に目を留めて、その前に立っているだけでしょうか。見える人や物の前で、神様を見失っていることはないでしょうか。

 ユダが見上げた神様は、今も生きておられ、私たち一人一人を、毎週の礼拝に招いてくださっています。その神様に、一週間の歩みの中で、いつも目を留めていたいと思います。様々な状況の中にありながら、様々な出会いの中にありながら、いつも見えない神様の前に立っていることを覚えたいと思います。そして、その神様を恐れながら、神様を愛しながら、目に見える世界での歩みを大切にしたいと思います。

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