礼拝説教から 2020年2月9日

  • 聖書箇所:創世記43章
  • 説教題:ユダの覚悟とヤコブの決断

 すると、ユダが父に言った。「あの方は私たちを厳しく戒めて、『おまえたちの弟と一緒でなければ、私の顔を見てはならない』と言いました。もし弟を私たちと一緒に行かせてくださるなら、私たちは下って行って、お父さんのために食糧を買って来ましょう。しかし、もし彼を行かせてくださらないなら、私たちは下って行きません。あの方は私たちに、『おまえたちの弟と一緒でなければ、私の顔を見てはならない』と言ったのですから。」(創世記43章4節)

 ヤコブの家族が住むカナンの地は深刻な飢饉の中にありました。子どもたちがエジプトで買って来てくれた食べ物も底をついてしまいました。

 すでに、長男のルベンが、弟のベニヤミンを連れてエジプトに行かせてほしいと訴えていました。ルベンは、ベニヤミンを必ず無事に連れて帰ると約束していました。もしベニヤミンを連れて帰ることができなければ、その時は自分の二人の子どもを殺してもかまわないと宣言していました。しかし、そのようなルベンの必死の訴えにもかかわらず、ヤコブはベニヤミンのエジプト行きを認めようとはしませんでした。そのヤコブが、もう一度エジプトに行って食糧を買って来てほしいと頼んだわけです。

 今度はユダが答えました。そして、ユダもまた、ベニヤミンを連れて行くことができなければ、エジプトに行くことはできないと言いました。実は弟のヨセフでありながら、ユダたちにはその正体が分からないエジプトの権力者の言葉がある以上、ベニヤミンを連れて行くことは絶対的な条件でした。

 ユダは、ヤコブを説得する中で、「お父さんのために食糧を買って来ましょう」と言っています。「お父さんのために」と言っています。

 深刻な飢饉の中で、食べる物が必要なのは、ヤコブだけではありません。ルベンにも、ユダにも、ベニヤミンにも、その他の兄弟たちにも、子どもたちにも、食べる物が必要です。皆が食べる物を必要としています。そうであるにもかかわらず、ユダはただ「お父さんのために」とだけ言っています。「お父さんのために」食糧を買いに行くのだと言っているわけです。

 どういうことでしょうか。ユダは、何とか納得してもらおうと思って、お父さんのために」という言い方をしているだけなのでしょうか。私は、ユダが何よりも「お父さん」のことを考えていたのではないかということを思います。ユダは、何よりも「お父さん」のことを第一に考えたということです。そして、それは、ユダだけの思いではなかったのだと思います。兄弟全員が同じように「お父さん」のことを第一に考えていたのではないでしょうか。

 ヤコブは、父親として、ヨセフとベニヤミン以外の子どもたちには、ほとんど見向きもしませんでした。もしかしたら、ヤコブは、とっくの昔に、子どもたちから愛想を尽かされていたとしても、決しておかしくはなかったのかも知れません。

 しかし、今日の本文に描かれているユダの姿から見えてくることは何でしょうか。それは、ユダが「お父さん」と向き合おうとしていたということではないでしょうか。ユダを始めとした兄弟たちが、自分たちには見向きもしてくれなかった「お父さん」と向き合おうとしていたということではないでしょうか。自分たちを愛してくれなかった「お父さん」のヤコブを、反対に愛そうとしていたということではないでしょうか。完全に崩壊していたヤコブの家庭は、回復へと向かっていることが分かります。

 兄たちに自分の正体を明かさなかいで、弟のベニヤミンを連れて来るようにと要求したヨセフが、自分たち家族に対する神様の御心をどれだけ理解していたのかは、正確には分かりません。しかし、いずれにしろ、そのヨセフの不可解な行動や命令の中で、ヤコブの家庭は回復へと向かっていました。完全に崩壊していたヤコブの家庭は回復へと向かっていました。そして、ヨセフの物語の全体を見る時、ヤコブの家庭を回復へと導いておられたのは神様ご自身であることが分かります。ヨセフの命を守り、ヨセフの兄たちを取り扱ってこられた神様ご自身が導いておられたということです。

 もちろん、本人たちはただ生きることに必死だったというだけのことかも知れません。家庭が回復に向かっていたなどということは、あくまでも結末を知っている現在の私たちだからこそ言えるだけのことであって、本人たちはただ必死だったというだけのことかも知れません。しかし、確実にヤコブの家庭は回復へと向かっていました。そして、それは導いておられたのは神様でした。

 私たちはどうでしょうか。もしかしたら、私たちもまた、ヤコブの家族のように、問題だらけの中で、神様の御心も分からないままに、不安になりながら、必死にもがいているということがあるのではないでしょうか。

 ヤコブの家族を導かれた神様は、現在の私たちをも同じように導いていてくださいます。私たちには見えないとしても、神様は私たちを導いていてくださいます。すべてを知っていてくださる神様が導いていてくださいます。そして、その見えない神様の確かな導きを信じて生きるのが、私たちの信仰生活です。

 いつも十字架の死と復活のイエス様を見上げながら、私たちを愛して最善へと導いていてくださる神様と共に、新しく出発することができればと思います。 

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