礼拝説教から 2019年8月4日

聖書箇所:創世記22章
説教題:主の山には備えがある

 御使いは言われた。「その子に手を下してはならない。その子に何もしてはならない。今わたしは、あなたが神を恐れていることがよく分かった。あなたは、自分の子、自分のひとり子さえ惜しむことがなかった。」(創世記22章12節)

 神様はアブラハムを試練にあわせられました。それは、愛する「ひとり子」であるイサクを、「全焼のささげ物」としてささげることでした。アブラハムはその神様のことばに従って、告げられた場所、モリヤの山に行って、イサクを祭壇の上で屠ろうとしました。しかし、そのアブラハムに神様は「待った」をかけられました。

 神様はアブラハムに対して、「あなたが神を恐れていることがよく分かった」と言われました。アブラハムが神様を恐れていることは、アブラハムが「自分のひとり子さえ惜しむことがなかった」ことによって、神様の前で明らかとなったのでした。

 アブラハムは、神様を恐れるがゆえに、「ひとり子」のイサクを惜しまずにささげました。アブラハムが神様を恐れたというのは、神様を怖がったということではありません。そうではなくて、神様を大切にしたということです。神様を第一にしたということです。そしてそれは、神様を愛したと言ってもいいのだと思います。アブラハムは神様を愛するがゆえに、「ひとり子」のイサクを惜しまずにささげたということです。

 自分の子どもを焼き尽くしてささげるというのは、あり得ないことです。あってはならないことです。神様はご自分を愛するがゆえに、そのあり得ないことをしようとしたアブラハムに対しては、「待った」をかけられました。しかし、ご自分に対しては、「待った」をかけられませんでした。

 ヨハネの福音書3章16節を見てみます。<神は、実に、そのひとり子をお与えになったほどに世を愛された。それは御子を信じる者が、一人として滅びることなく、永遠のいのちを持つためである。> 神様は、「ひとり子」のイサクをささげようとするアブラハムには「待った」をかけられました。しかし、ご自分に対しては、「待った」をかけられませんでした。「待った」をかけることなく、ご自分の「ひとり子」をささげてくださいました。そしてそれは、神様が「世を愛された」からでした。

 「世」というのは、神様に敵対する世界ということです。神様を神様として認めず、神様との互いに愛し合う関係の中に生きることを拒んで、自分中心に生きる私たちのことです。そして、自分中心に生きる中で、かえって、自分自身を傷つけたり、互いに傷つけ合ったりする私たちのことです。

 神様はその「世」を愛されたからこそ、私たちを愛されたからこそ、ご自分の「ひとり子」であるイエス様をささげてくださったのでした。十字架の上で、「ひとり子」のいのちを与えてくださったのでした。私たちの手によって、十字架にかかってくださったのでした。そして、その「ひとり子」であるイエス様を救い主として信じて受け入れるすべての人々に、永遠のいのちを受け取る道を開いてくださいました。「永遠の神」のいのちを受け取って、「永遠の神」に見つめられ、支えられながら生きる祝福の道を開いてくださいました。

 大切なことは、十字架の上で示された神様の愛を受け取ることです。私たちを愛するがゆえに、「ひとり子」のいのちを与えてくださった神様の下で、神様の愛に支えられて生きることです。

 毎週日曜日の礼拝の中で、私たちを愛するがゆえに、かけがえのない「ひとり子」をささげてくださった神様を見上げることができればと思います。神様はかけがえのない「ひとり子」をささげるほどに、私たちを愛していてくださる方であることを覚えたいと思います。そして、その神様の愛を、神様のいのちを受け取って、生かされ養われていくことを、心から願います。

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