礼拝説教から 2019年7月28日

聖書箇所:創世記21章
説教題:不信仰と争いを越えて

 そのころ、アビメレクとその軍の長ピコルがアブラハムに言った。「あなたが何をしても、神はあなたとともにおられます。(創世記21章22節)

 20章に続いて、アビメレクが出てきました。21章22節からの段落で描かれているのは、アビメレクとアブラハムが契約を結んだ場面です。アビメレクは、20章では、サラのことで自分に嘘をついたアブラハムを咎めましたが、21章では、アブラハムとの友好な関係が維持されることを願っているようです。そして、話し合いの場に、軍の長が伴われて来たのを見ると、アビメレクは軍事力をちらつかせながら、アブラハムとの話し合いを有利に進めようとしていたということになるでしょうか。

 そして、その話し合いの最初のことばは、とても印象的です。「あなたが何をしても神はあなたとともにおられます。」

 アビメレクはアブラハムに、「あなたが何をしても、神はあなたとともにおられます」といいました。アビメレクは、アブラハムの何を見て、「あなたが何をしても、神はあなたとともにおられます」と言ったのでしょうか。アブラハムがサラのことで自分に嘘をついた出来事でしょうか。イサクが生まれた出来事でしょうか。ハガルとイシュマエルが追い出された出来事でしょうか。いずれにしろ、それはアブラハムの立派な須賀tらとは言えないのだと思います。むしろその反対に、アブラハムの不信仰であり、アブラハムの家庭の中で起こった問題であり、アブラハムが悩み苦しむ姿だと言えるのではないでしょうか。

 しかし、そのアブラハムを見て、アビメレクは「あなたが何をしても、神はあなたとともにおられます」と言ったのでした。アビメレクはアブラハムの立派な信仰者の姿を見てではなくて、間違ったり失敗したり、悩んだり苦しんだりするアブラハムの姿、あるいは、アブラハムの不信仰な姿を見て、アブラハムとともにおられる神様を見たということです。それは、アビメレクが、不信仰で危なっかしい歩みのアブラハムを支えておられる神様を見たということです。決して諦めることなく、変わることなく、アブラハムとともにおられ、アブラハムの歩みを支えておられる神様を見たということです。

 もしかしたら、私たちは、人々に認められてこそ、人々から評価される何かを成し遂げてこそ、ともにおられる神様が証しされると考えるかも知れません。確かにそのような場合もあるでしょう。

 しかし、アブラハムを見たアビメレクが「あなたが何をしても、神はあなたとともにおられます」と言ったことばから、教えられることは何でしょうか。それは、私たちが認められようとそうでなかろうと、何かを成し遂げようとそうでなかろうと、神様がいつも私たちとともにいてくださるということです。神様は、私たちが人々から認められるような者になったからとか、何かを成し遂げたからとかということではなくて、私たちを愛するがゆえに、私たちとともにいてくださるということです。

 大切なことは、私たちがその神様に支えられて歩むことです。神様は、ご自分に支えられて歩む私たちを通して、ご自分を証ししてくださいます。

 アブラハムとともにおられた神様は、私たち一人一人とも、ともにいてくださいます。私たちはクリスマスの受胎告知の中に、私たちとともにいてくださる神様の名前を見ることができます。マタイの福音書1章23節です。<「見よ、処女が身ごもっている。↩ そして男の子を産む。↩ その名はインマヌエルと呼ばれる。」↩ それは、訳すと、「神が私たちとともにおられる」という意味である。>

 私たちの歩みはどうでしょうか。毎週日曜日の礼拝で、神様がいつもともにいてくださることを覚えたいと思います。アブラハムとともにいてくださり、この世界にお生まれになってくださった神様、主イエス・キリストが私たちとともにいてくださり、私たちの歩みを支えていてくださることを覚えたいと思います。そして、その神様を喜ぶ私たちの小さな歩みを見る人々の目が、神様に対して開かれることを心から願います。

コメントを残す