礼拝説教から 2019年8月11日

聖書箇所:創世記23章
説教題:サラとの別れ

 「私は、あなたがたのところに在住している寄留者ですが、あなたがたのところで私有の墓地を私に譲っていただきたい。そうすれば、死んだ者を私のところから移して、葬ることができます。」(創世記23章4節)

 アブラハムは神様に導かれてカナンの地に入った時、自分の子孫たちにカナンの地が与えられるという約束を受けました。しかし、アブラハム自身に土地に関する約束が与えられていたわけではありませんでした。アブラハムは、カナンの地において、墓地として利用する場所すらも与えられていませんでした。そしてそのために、アブラハムは死んだ妻であるサラを葬るために、ヒッタイト人たちに相談を持ちかけたのでした。

 アブラハムは自分のことをヒッタイト人たちに対して、「あなたがたのところに住んでいる寄留者」と紹介しました。アブラハムは自分のことを寄留者と紹介しました。寄留者というのは、その土地の者ではないということです。一時的に滞在しているよそ者だということです。

 実に何気なく記されていますが、私はアブラハムが自分のことを「寄留者」と紹介することばを見て、ちょっと驚きました。なぜなら、アブラハムとサラがカナンの地に来てから、60年という年月が過ぎていたからです。

 60年というのは、実に長い期間です。現在の私たちの感覚で60年と言えば、子どもが生まれて、巣立って、孫も生まれて、もしかしたら、ひ孫までいるというぐらいの期間ではないでしょうか。60年もあれば、完全にその土地の人になることができるわけです。

 実際に、アブラハムはヒッタイト人たちの間で一目を置かれていたようです。ヒッタイト人たちが「私たちの最上の墓地に、亡くなった方を葬ってください」と提案しているのを見ると、ヒッタイト人たちは頑なにアブラハムを拒絶していたのではないようです。むしろ好意的に迎え入れようとさえしているかのようです。アブラハムは60年の間に、カナンの地に定着することが十分に可能だったと言えるでしょう。

 しかし、そうであるにもかかわらず、アブラハムは寄留者であり続けたのでした。自分のことを寄留者と告白し続けたのでした。

 信仰生活とは何でしょうか。その一つの意味は、寄留者として歩み続けるということではないでしょうか。この地上の人生においては、自分があくまでも寄留者であることを覚えて生きるということです。それは、私たちがどこかへ旅をしなければならないということではありません。地上の人生には何の意味もないということでもありません。そうではなくて、地上での歩みそのものが旅のようなものであることを知るということです。人生の旅を終えた後には、帰るべき故郷があることを知るということです。そして、その帰るべき故郷を備えて待っていてくださる方、神様との関係の中に生かされるということです。

 神様は私たち一人一人に帰るべき故郷を用意していてくださいます。私たちが人生の旅を終えた後に帰ることのできる天の故郷を用意していてくださいます。信仰生活というのは、この天の故郷を目指して歩む旅です。天の故郷に導いていてくださる神様との関係の中に生かされる歩みです。

 私たちはどうでしょうか。寄留者として天の故郷を目指しているでしょうか。神様に導かれて歩む寄留者であることを忘れて、旅のような地上の人生に埋没してしまっていることはないでしょうか。

 与えられた人生を大切にしたいと思います。そして、それと同時に、この地上の人生がすべてではないことを、いつも覚えたいと思います。この地上の人生においては、自分が寄留者であることを覚えながら、天の故郷を目指して歩みたいと思います。天の故郷を備え、そこに導いていてくださる神様との関係の中に生かされたいと思います。

 

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