礼拝説教から 2019年4月21日

聖書箇所:ルカの福音書24章1-12節
説教題:復活の主イエス様

 彼女たちは恐ろしくなって、地面に顔を伏せた。すると、その人たちはこう言った。「あなたがたは、どうして生きている方を死人の中に捜すのですか。ここにはおられません。よみがえられたのです。まだガリラヤにおられたころ、主がお話になったことを思い出しなさい。人の子は必ず罪人たちの手に引き渡され、十字架につけられ、三日目によみがえると言われたでしょう。」(ルカの福音書24章5-7節)

 イエス様はよみがえられました。死んで、墓に葬られたイエス様は、よみがえられました。教会は二千年に渡って、このイエス様の死と復活を「福音」として宣べ伝えてきました。「良い知らせ」、「喜びの知らせ」として、宣べ伝えてきました。教会は、イエス様のよみがえられた日曜日ごとに、イエス様の復活を喜び祝い、宣べ伝えるために、集まってきたのです。

 しかし、どうなのでしょうか。イエス様がよみがえられたからと言って、そして、それがものすごいことだからと言って、どうしてそのイエス様の復活が私たちにとって「福音」となるのでしょうか。「良い知らせ」、「喜びの知らせ」となるのでしょうか。それは、私たちもまた、イエス様の復活のいのちに与ることができるからではないでしょうか。イエス様を「私の救い主」として信じて受け入れるすべての人々に、イエス様の復活のいのち、永遠のいのちに与る道が開かれているからではないでしょうか。

 私たちは誰もが死を迎えます。そして、死んだら、それですべてが終わりになります。誰もこの死の力に立ち向かうことはできません。このすべてを終わりにする死を、誰もが迎えなければならない現実は、死というものが、私たちを最終的に支配する力であることを物語っているように見えます。私たちは誰もが死に支配されているのだと言ってもいいでしょう。私たちはどのような人生を送るとしても、結局は死に捕えられてしまうのです。この死の力、死の支配から逃れることは誰にもできないのです。そして、まことの神である主イエス様も、私たちと同じように、この死の力に捕えられることになりました。

 実は、イエス様が十字架にかかって死なれた時、その死を見ていた誰もが、「これですべては終わった」と思いました。イエス様に敵対していた人々も、イエス様の弟子だった人々も、傍観者的な態度を取っていた人々も、十字架の上で死んだイエス様を見て、「すべてが終わった」と思ったのでした。

 しかし、どうだったでしょうか。イエス様は死んで終わったわけではありませんでした。死んで終わったのではなくて、死人の中からよみがえられたのです。よみがえって、今も生きておられるのです。そして、私たち一人一人を、死んで終わりの人生ではなく、ご自分の復活のいのちに与って生きる道へと招いていてくださいます。「まことの神である主イエス様が十字架の上で死んで復活されたのは、『私』を愛されたからであり、『私の罪』が赦されるためであり、『私』とともに生きることを願われたからだ」ということを、信じて受け入れるすべての人々を、ご自分とともに永遠に生きる道へと招いていてくださいます。

 死は、私たちの人生において、最大の問題です。決して避けることのできない問題です。

 この最大の問題、決して避けることのできない死の問題と、私たちはどのように向き合っているでしょうか。現実の世界を生きることに精一杯で、死の問題なんか考えていられないという方もおられるかも知れません。そうでありながら、どこかで漠然と不安や恐れを抱いているという方もおられるかも知れません。あるいは、不安や恐れを覚えながらも、どうしていいか分からないという方はおられないでしょうか。

 イエス様の死と復活の恵みは、私たち一人一人に与えられています。イエス様の復活のいのちに与って、イエス様に愛されて生きる恵みは、私たち一人一人に与えられています。イエス様は、その恵みの道へと私たちを招いていてくださいます。

 今日の礼拝に集われた方が、一人ももれることなく、イエス様の死と復活の恵みに与ることができることを、心から願います。そうして、死に終わることのない永遠のいのちへの希望をいただきながら、イエス様の愛に支えられて生きる喜びを覚えながら、与えられた人生を誠実に歩んでいくことができることを、心から願います。

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