礼拝説教から 2019年4月14日

聖書箇所:創世記9章18節-10章32節
説教題:セム、ハム、ヤフェテの歴史

 カナンの父ハムは、父の裸を見て、外にいた二人の兄弟に告げた。それで、セムとヤフェテは上着を取って、自分たち二人の肩に掛け、うしろ向きに歩いて行って、父の裸をおおった。彼らは顔を背け、父の裸は見なかった。(創世記9章22-23節)

 大洪水の後、ノアは農夫となって、ぶどう畑を作り始めたようです。そして、収穫したぶどうの実から造ったぶどう酒を飲むと、酔っ払って、天幕の中で裸になって眠り込んでしまいました。ノアは神様から「正しい人」、「全き人」と認められていたような人でしたが、酔っ払って、みっともない姿をさらしてしまいました。

 しかし、ここで問題とされているのは、ノアがぶどう酒を飲んで酔っ払ったことではないようです。むしろ、酔って寝ているノアに対して、三人の息子たちが取った行動だと言えるでしょう。

 ノアが裸で寝ているのを最初に見つけたのは、ハムだったようです。ハムは、ノアの裸を見ると、外にいた二人の兄弟に告げたということが記されています。そして、ハムの知らせを受けた二人の兄弟、セムとヤフェテが駆けつけることになりました。

 しかし、ハムからノアのことを聞いたセムとヤフェテは、とにかく急いでノアの所に駆け付けたということではなかったようです。そうではなくて、「上着を取って、自分たち二人の肩に掛け、うしろ向きに歩いて行って、父の裸をおおった」のでした。セムとヤフェテは、父親のノアが酔って裸で寝ているという知らせを聞くと、とにかくすぐに駆け付けようとしたのではなくて、上着を自分たちの肩に掛けて、わざわざ後ろ向きに歩いて行ったのでした。それは、酔って寝ている父親の裸を見ないで、その裸を覆い隠すためでした。セムとヤフェテは、父親のみっともない姿を見るためではなくて、覆い隠すために、わざわざ後ろ向きに歩くというような、面倒なことをしたのでした。それは、セムとヤフェテが、あくまでも父親を父親として敬ったということになるでしょう。父親を敬って、そのみっともない姿を覆い隠そうとしたのだということになるでしょう。

 後に、神様はご自分の民であるイスラエルの人々に与えられた律法の中で、「あなたの父と母を敬え」と教えられました。また、新約聖書に目を向けると、ペテロの手紙第一2章17節には、<すべての人を敬い、兄弟たちを愛し、神を恐れ、王を敬いなさい。>と記されています。神様のみこころは、私たちが互いを敬うことだと言えるでしょう。

 誰かを敬うというのは、とても難しいことです。なぜなら、私たちが敬うべきとされている相手というのは、必ずしも敬いやすい人ばかりではないからです。父親であるにしろ、母親であるにしろ、夫であるにしろ、妻であるにしろ、先生であるにしろ、上司であるにしろ、また教会の兄弟姉妹であるにしろ、私たちが敬うべきとされている相手は、必ずしも敬いやすい人ばかりではないのです。むしろ、「どうやったら、こんな人を敬うことができるんだ」と、逆にいくらでも言い訳をすることができるほどです。

 そうすると、どうなのでしょうか。私たちが敬うべき誰かを敬うことができない、互いを敬うことができないとすれば、それは相手が悪いからだということになるのでしょうか。敬うことのできない原因は、自分にあるのではなくて、相手にあるということになるのでしょうか。

 マルコの福音書7章6節には、<イエスは彼らに言われた。「イザヤは、あなたがた偽善者について見事に預言し、こう書いています。↩ 『この民は口先ではわたしを敬うが、↩ その心はわたしから遠く離れている。>と記されています。「わたし」というのは、神様のことです。神様は、イスラエルの民が、口先でご自分を敬っているが、その心がご自分から離れていると指摘しておられます。

 イスラエルの民が神様を敬っていないのは、神様が敬うに足る方ではないからではありません。神様の側に原因があるからではありません。その反対に、イスラエルの民の心が、神様から離れていたからです。イスラエルの民は、神様が敬うに足る方ではないがために、神様を敬っていなかったのではなくて、自分たちの心が神様から離れていたがために、神様を軽んじていたということです。イスラエルの民が、神様を敬うことのできなかった原因は、自分たち自身の中にあったということです。

 私たちはどうでしょうか。神様を敬っているでしょうか。そして、互いを敬っているでしょうか。

 神様は私たちを敬っていてくださいます。私たちが敬うに足る人だからではなくて、私たちを愛するがゆえに、私たちを敬っていてくださいます。そして、その証しとして、私たちのために、十字架にかかってくださいました。まことの神である主イエス様は、ご自分を離れ、自分勝手に生きる私たちを愛し、特別に敬って、十字架にかかってくださいました。そうして、ご自分から離れる私たちに対して、ご自分とともに生きる道を開いて、そこに私たちを招いていてくださいます。

 毎週の礼拝の中で、十字架を見上げながら、まことの神である主イエス様が、私たち一人一人を愛し、特別に敬っていてくださることを覚えたいと思います。そして、私たちもまた、イエス様を愛し、敬いたいと思います。イエス様が十字架にかかるほどに、愛して、敬ってくださった互いを敬いたいと思います。

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