礼拝説教から 2019年4月28日

聖書箇所:創世記11章
説教題:バベルの塔

 彼らは言った。「さあ、われわれは自分たちのために、町と、頂が天に届く塔を建てて、名を上げよう。われわれが地の全面に散らされるといけないから。」(創世記11章4節)

 人々は「頂が天に届く塔」を建てようと言い出しました。そして、その理由のようなこととして、「名を上げよう」ということと、「われわれが地の全面に散らされるといけないから」ということを言っています。

 「名を上げる」というのは、有名になるということです。自分たちの名前をとどろかせるということです。人々には、「頂が天に届く塔」を建てることによって、自分たちの名を知らせたいという欲望があったようです。

 しかし、彼らが「頂が天に届く塔」を建てようとしたのは、ただ単純に自分たちの名前をとどろかせたいという欲望を満足させるためだけではなかったようです。なぜなら、それは彼らが「地の全面に散らされるといけない」と考えたからでもあったからです。人々は、地の全面に散らされることを恐れて、「頂が天に届く塔」を建てようとしたということです。

 「散らされるといけない」というのは、どういうことでしょうか。バラバラにされたくないということでしょうか。人々は、互いに愛し合っていて、皆が一緒にいたいと願うほどに、仲が良かったということでしょうか。あるいは、誰か王のような人が自分の支配する人々を失いたくなかったということでしょうか。求心力を失いたくなかったということでしょうか。

 そのいずれであるにしろ、人々が散らされないために考えたことは、「頂が天に届く塔」を建てるということでした。「頂が天に届く塔」を建てるなら、その塔の下に、一つになることができるということでした。

 「頂が天に届く塔」を建てるというのは、神様に匹敵するような力があることを示すということです。神様に匹敵するような力を持っていると誇ることです。人々は、「頂が天に届く塔」を建てて、神様に匹敵するような力を示して、その塔の下に、神様に匹敵するような力の下に、一つであろうとしたのでした。人々は、神様の名前の下に、神様の力の下に、一つであろうとしたのではなくて、むしろ神様を退けて、自分たち自身が「神のように」なって、一つであろうとしたということです。そして、それは恐らくは、人々が、互いに愛し合っていて、バラバラになりたくなかったということではなくて、神様に匹敵するような力を示すことによって、自分たちの国を一つにまとめ上げようとしたということになるのだと思います。自分たちの国だけではなくて、まさに世界中の人々を自分たちの支配下に治めようとしたということになるのだと思います。

 バベルの塔を建てる、それは、人間的な力によって、一致を目指すことだと言ってもいいのかも知れません。神様の下にではなくて、神様の力によってではなくて、人間的な力によって、一致を目指すことです。

 誰かが強い力によって、人々をまとめ上げていくというのは、意外と簡単なことなのではないかと思います。大きな権力を持った人が人々を支配したり、あるいは、いわゆるカリスマを持った人が人々を虜にしたりというのは、意外と簡単なことなのかも知れないと思います。

 しかし、人間的な力による一致というのは、どこかに無理があります。どこか強制的な所があったり、表面的なものであったりするのだと思います。そして、人間的な一致が強制的なものであったり、表面的なものであったりするならば、それは偽りの一致であり、そこには痛みが伴うことになるでしょう。

 私たちは教会として集まっています。そして、教会の一致を願っています。バラバラなのではなくて、一つであることを願っています。心を一つにすることを願っています。しかし、それは決して人間的な力によるのではありません。私たちが教会として集められているのは、まことの神である主イエス様においてであり、教会が一つである根拠は、そのイエス様だけを誇る所にあるからです。

 私たちは、どうでしょうか。人間の力によって、バベルの塔を建てようとしていることは、ないでしょうか。教会が一つであらねばならないという理念の下に、人間的な力による一致を推し進めているというようなことはないでしょうか。そのために、神様のことば、神様の名前が利用されたりしているということはないでしょうか。

 いつも十字架にかかってくださったイエス様を仰ぎ見たいと思います。十字架のイエス様だけを誇る所においてのみ、教会は一つであることができることを、覚えたいと思います。「神のように」なろうとする私たちの罪が赦されるために、イエス様が十字架にかかってくださったことを信じ、そのイエス様の十字架の前で謙遜になり、十字架のイエス様だけを誇る所にのみ、教会は、私たちは一つであることができることを、いつも覚えたいと思います。

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