礼拝説教から 2019年3月31日

 

聖書箇所:創世記7章6節-8章22節
説教題:洪水

 入ったものは、すべての肉なるものの雄と雌であった。それらは、神がノアに命じられたとおりにはいった。それから、主は彼のうしろの戸を閉ざされた。(創世記7章16節)

 大洪水が起こる直前、ノアとその家族、そして神様がノアに「連れて入りなさい」と命じておられたあらゆる種類の生き物が、雄と雌のペアで、箱舟に入りました。そして、最後に神様が箱舟の戸を閉じられました。

 榎本保郎牧師は、『ちいろば牧師の一日一章』の中で、神様がノアの後ろの戸を閉じられたことについて、「なんと無気味な言葉であろう」と記しておられます。榎本牧師は、神様がノアの後ろの戸を閉じられたことについて、「無気味だ」と言われているのです。そして、その理由は、神様がノアを箱舟に閉じ込められたからだということです。「なんと無気味なことばであろう。神はノアを箱舟に閉じこめられたのである。再びそこから出られないように。」

 榎本牧師の理解によれば、ノアは神様によって、箱舟に閉じ込められたということなるでしょう。確かに、そのように理解することもできるでしょう。実際に、フランシスコ会訳では、「主は、彼のうしろの戸を閉ざされた」という部分は、「主はノアを中に閉じこめられた」と訳されています。神様が箱舟の戸を閉じられたことというのは、神様がノアを箱舟の中に閉じ込められたことでもあるということです。そして、神様がノアを箱舟の中に閉じ込められたことによって、ノアは救われたのでした。大洪水によるさばきから救われたのでした。

 神様の救いというのは、どのようなものでしょうか。それは、箱舟の中に、神様の御手の中に閉じ込められるということです。神様のご支配の中に入るということです。自分が「神のように」なって、自分中心に生きるのではなくて、神様が神様であることを認めるということです。神様の御手の中に入って、神様のご支配を受け入れるということです。

 もしかしたら、神様の御手の中に閉じ込められるというのは、自分が自分の神であろうとする罪人の私たちにとっては、魅力的なことには見えないかも知れません。自由を奪われることであるかのように思えるかも知れません。

 しかし、ここで覚えなければならないことは、何でしょうか。箱舟の外では自分で自分のいのちを支えることができないということです。自分の自由に生きることができるのではなくて、むしろ、荒れ狂う大波に飲まれて、自由を奪われて、自由どころか、いのちまでも奪われてしまうということです。箱舟の外、神様の御手の外には、生きる道がないということです。

 そして、同時に覚えたいことは、箱舟の中、神様の御手の中、神様のご支配の中には、神様から守られて生きる道があるということです。神様に愛されて生きる道があるということです。その道を私たちが喜んで選択する自由を、神様は与えていてくださるということです。

 私たちはどこにいるでしょうか。箱舟の中でしょうか。箱舟の外でしょうか。

 神様が箱舟の戸を閉じられたということは、箱舟の中にいる者にとっては、確かな救いが約束されていることを意味しています。しかし、その反対に、箱舟の外にいる者にとっては、救いの戸が閉ざされたことを意味しているでしょう。

 ノアの時代、箱舟の戸は閉じられました。しかし、現在の私たちには、救いの戸は開かれています。イエス・キリストによる救いの戸は開かれています。「イエス様が十字架にかかって死なれたのは、『私』を愛されたからであり、『私』の罪が赦されるためだったんだ」ということを信じるすべての人々に、救いの戸は開かれています。

 神様は今日も私たちを箱舟の中へと招いていてくださいます。イエス・キリストを通して、ご自分の御手の中へと招いていてくださいます。ご自分の愛に支えられて、ご自分とともに生きる道へと招いていてくださいます。

 今日の礼拝に集められたすべての人が、イエス様を信じて、神様の御手の中に入ることができることを心から願います。私たちを愛し、私たちとともに生きることを願っておられる神様のご支配を受け入れて、神様の救いに与ることができることを心から願います。

 

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