礼拝説教から 2019年3月17日

 

聖書箇所:創世記5章1節-6章8節
説教題:アダムからノアへ

 これはアダムの歴史の↩ 記録である。↩ 神は人を創造したとき、神の似姿として人を造り、男と女に彼らを創造された。彼らが創造された日に、神は彼らを祝福して、彼らの名を「人」と呼ばれた。(創世記5章1-2節)

 何気なく使っていることばですが、「歴史」というのは何でしょうか。『広辞苑』で「歴史」ということばを調べてみると、<人類社会の過去における変遷・興亡のありさま。また、その記録。>と説明されています。つまり、「歴史」というのは、人間の歩みについて記されたものだということです。「歴史」の関心は人間にあるということです。

 しかし、今日の本文に出てくる「アダムの歴史の記録」は、どうでしょうか。その冒頭には、「神は、人を創造したとき、神の似姿として人を造り、男と女に彼らを創造された」と記されています。最初に「神」ということばが出てきました。人間の歩みを記録する「歴史」の始まりが、神様から始まっているということです。

 そうすると、どういうことになるでしょうか。創世記5章に出てくる「歴史」というのは、ただ単に人間の歩みが見つめられたものではないということになるでしょう。そこでは、「歴史」の主人公である人間が見つめられている一方で、その人間を造られた神様が同時に見つめられているということです。あるいは、神様こそが人間を造られた方であり、「歴史」そのものを始められた方であり、「歴史」を支配する主人公であるということが、宣言されていると言ってもいいでしょう。

 最初の人間であるアダムとエバは、神様ご自身の「似姿」として造られました。それは、アダムとエバが他のどのようなものとも異なる、特別な存在であることを示しています。神様との特別な関係の中にある存在として造られたことを示しています。具体的には、神様から呼びかけられる唯一の存在だということです。同時に、その神様の呼びかけに答えることのできる唯一の存在だということです。アダムとエバは、神様から呼びかけられ、神様の呼びかけに答えることのできる唯一の特別な存在として造られたということです。そしてそれは、アダムとエバが神様の支配を知り、その上で、神様の支配を喜んで受け入れ、神様に従って生きる存在として造られたことを意味していると言ってもいいでしょう。

 しかし、そのアダムとエバが神様に罪を犯しました。アダムとエバが神様に罪を犯したというのは、アダムとエバが神様の呼びかけを拒んだということです。神様との特別な関係の中にあることを、神様に束縛されていることと受け取って、神様から独立をしたということです。アダムとエバは神様の支配を嫌って、神様から離れていったということです。

 しかし、そうであるにもかかわらず、今日の本文に示されていることは、何でしょうか。それは、アダムとその子孫たちが、変わることなく、神様の支配の中にあるということです。そして、アダムとその子孫たちが、神様の支配の中にあるというのは、神様がアダムとその子孫たちを、なおもご自分との特別な関係の中に置いてくださっているということです。神様は、離れていったアダムとその子孫たちに、ずっと呼びかけていてくださり、アダムとその子孫たちがご自分の呼びかけに答えるのを待っていてくださるということです。神様は、決して諦めることなく、アダムとその子孫たちを愛し続けていてくださるということです。

 私たちは、このアダムの子孫として生まれてきました。それは、私たちが神様との特別な関係の中にある者として生まれてきたということを意味しています。神様から親しく呼びかけられ、その神様の呼びかけに答えることのできる者として生まれてきたということを意味しています。そして、それは同時に、私たちが神様の呼びかけを拒み、神様との関係の中においてではなく、自分自身が神となって生きようとする罪人であるということを意味しています。

 私たちは神様から離れていきました。しかし、その私たちをご自分の支配の中に置いていてくださいます。諦めることなく、私たちに呼びかけ、私たちがその呼びかけに答えることを願っておられます。そうして、私たちがご自分とともに生きることを願っておられます。

 神様は今日も私たちに呼びかけていてくださいます。ここに集められた私たちが、一人ももれることなく、この神様の呼びかけに答える者とならせていただきたいと思います。

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