礼拝説教から 2019年3月10日

聖書箇所:創世記4章17-26
説教題:カインの系譜

 レメクは妻たちに言った。↩ 「アダとツィラよ、私の声を聞け。↩ レメクの妻たちよ、私の言うことに耳を傾けよ。↩ 私は一人の男を、私が受ける傷のために殺す。↩ 一人の子どもを、私が受ける打ち傷のために。↩ カインに七倍の復讐があるなら、↩ レメクには七十七倍。」(創世記4章23-24節)

 レメクは最後に、「カインに七倍の復讐があるなら、↩ レメクには七十七倍」と歌いました。

 「カインに七倍の復讐があるなら」というのは、カインに対する神様のことばから来ています。神様は、誰かに殺されることを恐れるカインに対して、「カインを殺す者は七倍の復讐を受ける」と言われたのでした。これは、誰もカインを傷つける者がないように、神様ご自身がカインを守ってくださるということを意味していました。神様は、カインに七倍の復讐を認められたのではなくて、神様ご自身が「誰にもカインを傷つけさせない、カインを守る」ということを、宣言されたということです。

 しかし、レメクがこの神様のことばを用いて歌っていることは、何でしょうか。それは「自分の手で徹底的に復讐してやる」ということです。

 後に、神様はイスラエルの民に与えられた律法の中で、「復讐と報復はわたしのもの」(申命記32章35節)と言われました。また、使徒パウロはローマの教会に宛てた手紙の中で、この律法のことばを引用しながら、「自分で復讐してはいけません」(ローマ人への手紙12章19節)と言いました。復讐は神様のものであり、自分ですることではないということです。

 レメクは、この神様のものである復讐を、自分のものにしました。それは、レメクが復讐を自分のものにすることによって、自分で復讐する者となることになって、自分自身が神であることを宣言したということになるでしょう。しかも、まことの神様よりも徹底的な復讐をすることによって、自分が神様よりも力のある者であることを示しているということになるでしょう。

 自分が「神のように」なるということ、その意味することの一つは、復讐を自分のものにするということになるでしょう。自分で復讐をするということです。そうして、自分の力を誇るということです。

 復讐を自分のものにする、自分で復讐をするというのは、どうでしょうか。それは、決して楽なことではないのだと思います。むしろ、極めて苦しいことなのではないかということを思います。なぜなら、復讐するということは、怒りや憎しみに囚われていることを意味しているからです。しかも、どんなに復讐を繰り返したとしても、怒りや憎しみから完全に解放されることは、決してないからです。怒りや憎しみの奴隷となって生き続けなければならないからです。怒りや憎しみによって、自由と平安を奪われながら生きることだからです。

 神様は「復讐はわたしのもの」と言われました。これは、神様が復讐の鬼だということを意味しているのではありません。残忍な方だということではありません。そうではなくて、私たちが自分の怒りや憎しみから解放されることを、誰よりも神様ご自身が願っておられるということです。神様は、私たちが自分の怒りや憎しみをご自分に委ねて解放されることを願っておられるということです。

 新約聖書の福音書に目を向ける時、まことの神である主イエス様は、赦しを教え、赦しに生き、最終的には、怒りや憎しみに生きる人々に、ご自分のいのちをささげられた方であることが分かります。そうして、自分が「神のように」なって、自分の力を誇り、同時に、怒りや憎しみに囚われて生きる人々に、新しく生きる道を開いてくださった方であることが分かります。ご自分の下で、怒りや憎しみから解放され、同時に愛と赦しに生きる道を開いてくださった方であることが分かります。

 いつも、私たちの自由を願い、私たちの平安を願っておられる神様を見上げたいと思います。私たちが決して損なわれることのない自由と平安をいただいて生きるために、私たちの怒りや憎しみを十字架の上で受け止めてくださった主イエス様を見上げたいと思います。そうして、決して変わることのない愛の中で、怒りや憎しみから解放され、愛と赦しに生きることができることを心から願います。

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