礼拝説教から 2019年3月3日

聖書箇所:創世記4章1-16節
説教題:エデンの東

 しばらく時が過ぎて、カインは大地の実りを主へのささげ物として持って来た。アベルもまた、自分の羊の初子の中から、肥えたものを持って来た。主はアベルとそのささげ物に目を留められた。しかし、カインとそのささげ物には目を留められなかった。それでカインは激しく怒り、顔を伏せた。(創世記4章3-5節)

 アダムとエバは、神様に対して犯した罪によって、エデンの園から出て行かなければならないことになりました。しかし、その一方で、アダムとエバは、自分たち夫婦に子孫が与えられることを、神様から約束されていました。その子孫が蛇に完全な勝利を収めることを約束されていました。そして、神様が「皮の衣」を着せてくださることによって、神様から守られていることを具体的に知ることができました。

 そのアダムとエバの間に二人の息子が与えられました。兄の方がカイン、弟の方がアベルです。兄のカインは「大地を耕す者」となり、弟のアベルは「羊を飼う者」となりました。

 エバは、カインが生まれた時、「私は、主によってひとりの男子を得た」と言いました。エバは、「主によって」と言いました。自分たち夫婦に子どもが与えられたのは、主なる神様の恵みであることを、エバは確信していたようです。エバは、常日頃から神様の約束を覚え、神様の約束に希望を置いて生きていたと言えるのかも知れません。

 そして、そのエバの影響があったのでしょうか。カインとアベルは神様にささげ物を持って来ました。兄のカインは「大地を耕す者」として「大地の実り」を、弟のアベルは「自分の羊の初子の中から、肥えたもの」を持って来ました。神様にささげ物を持って来たというのは、神様を礼拝したということです。

 カインとアベルの時代、ささげ物についての教えがあったわけではありません。そうすると、カインとアベルは、定められたこととして、ささげ物を持って来たということではないのでしょう。誰かから強制をされてというのではなくて、自発的にささげ物を持って来たようです。そしてそれは、カインとアベルが、自分たちを守り生かしていてくださる神様の恵みを知っていて、その神様に対する感謝と喜びを、ささげ物によって表そうとしたということを意味しているのかも知れません。

 しかし、そのささげ物のことで、礼拝のことで、大きな問題が起こりました。それは、神様がカインとそのささげ物には目を留めず、アベルとそのささげ物にだけ目を留められたということです。神様は、アベルとそのささげ物に目を留められましたが、カインとそのささげ物には目を留められなかったのでした。神様が目を留められたというのは、喜んで受け取られたということです。神様は、アベルとそのささげ物だけを喜ばれて、カインとそのささげ物は喜ばれなかったということです。

 神様はどうして、カインのささげものに目を留めず、アベルのささげ物だけに目を留められたのでしょうか。今日の本文には、理由らしい理由が何も記されていません。神様がアベルのささげ物だけに目を留められ、カインのささげ物に目を留められなかった理由は、具体的には何も記されていないということです。

 確かなことは、その理由が何であれ、自分のささげ物に目を留められなかった神様に対して、カインが激しい怒りを覚えたということです。怒りのあまり、顔を伏せてしまったということです。

 カインは神様が自分のささげ物に目を留めてくださらなかった、自分のささげ物を喜んでくださらなかったことで、激しい怒りを覚えて、顔を伏せたのでした。顔を伏せたというのは、顔を背けたということです。「神様の顔なんか見たくない」ということです。カインは、激しい怒りの中で、神様との交わりを自分の方から断ち切ってしまったのでした。

 しばしば、私たちは神様の喜ばれる礼拝ということを言います。私たちが喜び、私たちが満足する礼拝ではなくて、神様が喜ばれ、神様が満足される礼拝です。そしてそれは、カインとアベルにとっても同じだったのではないでしょうか。カインとアベルもまた、神様が喜ばれる礼拝を願ったのだと思います。

 しかし、その神様が喜ばれる礼拝、神様が満足される礼拝というのは、どのようなものなのでしょうか。それは、私たちのささげる何かによって実現するものではありません。もし、私たちが自分のささげる何かによって、神様を喜ばせようとするなら、私たちはカインのように怒りを覚えることになったり、失望したり、落胆したり、あるいは傲慢になったりするしかないでしょう。

 神様の喜ばれる礼拝、それは私たちのささげる何かによって実現するものではありません。むしろ、それは反対に、私たちが自分のささげる何かによっては、決して神様を喜ばせることができないことを知ることから始まるものだと言えるでしょう。そうして、私たちが神様を喜ぶことから始まるものだと言えるでしょう。私たちの罪が赦されるために、まことの人となって、私たちの代わりに十字架にかかって、私たちの罪の罰を受けてくださった神様の恵みを、私たちが受け取って喜ぶことです。私たちを愛して、私たちが新しく生きるために、ご自分のいのちをささげてくださった神様の恵みを、私たちが受け取って感謝することです。礼拝は私たちが神様ご自身を喜ぶ場であり、神様はご自身を喜ぶ私たちを見て、喜んでくださるということです。

 「最初から」だったのか、「いつのまにか」だったのか、正確な所は分かりませんが、カインは自分のささげ物によって、神様を喜ばせようとしたようです。そして、だからこそということになるでしょうか。カインは自分のささげ物に目を留めてくださらない神様に激しい怒りを覚えることになりました。

 私たちはどうでしょうか。私たちの礼拝はどうでしょうか。神様を喜んでいるでしょうか。ご自分のいのちをささげてまでして、私たちの罪が赦される道を開いてくださった神様の恵みを受け取って、喜んでいるでしょうか。感謝しているでしょうか。その反対に、私たち自身が何かをささげることによって、神様を喜ばせようとしていることはないでしょうか。そうして、神様が喜んでいてくださるとか、喜んでいてくださらないとか、私たちが勝手に判断をして、怒りを覚えたり、落ち込んだりしていることはないでしょうか。傲慢になったりしていることはないでしょうか。

 いつも、礼拝の中で、自分が神様を喜ばせることのできない者であることを覚えたいと思います。しかし、その自分を愛してくださり、いのちをささげてくださった神様の恵みを受け取って、喜びたいと思います。そうして、その恵みに生かされ、恵みに応答していく者でありたいと思います。

 

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