礼拝説教から 2019年2月24日

 

聖書箇所:創世記3章8-24節
説教題:確かな約束の勝利

 人は言った。「私のそばにいるようにとあなたが与えてくださったこの女が、あの木から取って私にくれたので、私は食べたのです。」神である主は女に言われた。「あなたは何ということをしたのか。」女は言った。「蛇が私を惑わしたのです。それで私は食べました。」(創世記3章12-13節)

 アダムとエバは、蛇に唆されて、神様のことばに従って生きることを「束縛」と捉え、自ら「神のように」なって、自分の「自由」を獲得するために、神様のことばに背いて、「善悪の知識の木の実」を食べました。アダムとエバは、神様から独立して、自分自身が「神のように」なろうとする罪を犯したのでした。

 そのアダムとエバは、神様に呼びかけられ、問いかけられた時、素直に「ごめんなさい」と言ったのではありませんでした。「赦してください」と言ったのではありませんでした。そうではなくて、言い訳をしたのでした。アダムは、自分の犯した罪の責任を、妻であるエバに押し付けようとしたのでした。「確かに食べたことは食べた、でも悪いのは、この女だ!」ということです。

 そして、アダムが罪の責任を押し付けようとした相手は、エバだけではなかったようです。

 アダムは、妻であるエバについて、「あなたが与えてくださったこの女」という言い方をしています。「悪いのはこの女だ」ということですが、「そもそも、この女を私に与えたのは、神様、あなたでしょ」ということです。「責任は、この女を与えた神様、あなたにもあるんじゃないですか」ということです。アダムは、エバだけでなく、神様にまで、責任を押し付けようとしたようです。

 アダムとエバは「神のように」なろうとしました。しかし、その「神のように」なるというのは、具体的にはどういうことなのでしょうか。その一つは、自分で自分の責任を負うということではないかと思います。

 しばしば、「自由には責任が伴う」という言い方がされたりします。神様に従うことを束縛と捉え、その神様から独立して、自分自身が「神のように」なって、自分の自由を獲得するというのは、同時に自分で自分の責任を負わなければならないということを意味しています。自分の言ったこと、自分のしたこと、さらには自分の存在そのものに対して、責任を負わなければならないということです。

 しかし、アダムとエバが「神のように」なろうとした出来事の中で、見えてきたことは何でしょうか。それは、アダムとエバが責任を負おうとしなかったということです。責任を負えなかったということです。アダムとエバに辛うじてできたことは、責任を他人に押し付けることだったということです。そうして、他人を傷つけながら、自分を保とうとしたということです。

 私は、罪の責任を他人に押し付けようとするアダムやエバの姿を見ながら、「これは決して単なる昔話ではないなぁ」ということを痛感させられます。「まさに私たちの姿ではないか、自分自身の姿そのものではないか」ということを痛感させられます。

 アダムから罪の責任を押し付けられたエバは、その罪の責任を蛇に押し付けようとしました。しかし、同じように、罪の責任を押し付けられた神様は、どうされたでしょうか。神様は、アダムから押し付けられた罪の責任を、他の誰かに押し付けようとはされませんでした。神様ご自身が押し付けられた罪の責任を負ってくださいました。

 神様は、アダムとエバの罪に対して、何の責任もないにもかかわらず、その責任を負ってくださいました。アダムとエバを愛するがゆえに、私たち一人一人を愛するがゆえに、その責任を負ってくださいました。神様はまことの人となって、十字架にかかって、私たちが犯した罪の責任を負ってくださいました。罪の責任を負うことのできない私たちの代わりに、十字架にかかって、私たちが犯した罪の責任を負ってくださいました。そうして、私たちの罪が赦される道を開いてくださいました。

 私たちはどうでしょうか。自分の言動、自分の存在そのもの、そして自分の罪に対する責任と、どのように向き合っているでしょうか。互いに押し付け合っているでしょうか。どうすることもできなくて絶望しているでしょうか。居直っているでしょうか。

 いつも私たちが犯した罪の責任を負うために、十字架にかかってくださったイエス様の下に留まることができればと思います。そうして、イエス様から離れて、互いに責任を押し付け合ったりするのではなくて、イエス様の下で、互いに責任を負い合っていく者になることができればと思います。

コメントを残す