礼拝説教から 2018年9月2日

  • 聖書箇所:マルコの福音書14章10-21節
  • 説教題:ユダの裏切り
 さて、十二人の一人であるイスカリオテのユダは、祭司長たちのところへ行った。イエスを引き渡すためであった。(マルコの福音書14章10節)
 夕方になって、イエスは十二人と一緒にそこに来られた。(マルコの福音書14章17節)
 人の子は、自分について書かれているとおり、去って行きます。しかし、人の子を裏切るその人はわざわいです。そういう人は、生まれて来なければよかったのです。」(マルコの福音慮14章21節)
 過越の祭りの時が来ていました。イエス様は過越の食事を準備し、主人として、弟子たちをその席に招かれました。
 イエス様は過越の食事の席に十二弟子の全員を招かれました。一人も欠けることなく、ご自分を裏切ることになるイスカリオテのユダをも含んだ十二弟子の全員を招かれました。
 もちろん、イエス様は、ユダがご自分を裏切ろうとしていることに、気づいておられました。イエス様はすべてをお見通しでした。
 しかし、そうであるにもかかわらず、イエス様は、裏切り者のユダをも含めた十二弟子の全員を、過越の食事の席に招かれたのでした。イエス様は、ユダがご自分を裏切ることになるのを承知の上で、他の弟子たちとともに、過越の食事の席に招かれたということです。
 私たちはここから何を見ることができるでしょうか。そのことの一つは、イエス様が主人として準備された過越の食事は、ユダのためでもあったということではないでしょうか。イエス様は、ご自分を裏切ろうとしているユダのためにも、過越の食事を準備されたということです。そして、それは同時に、イエス様が過越の子羊として十字架にかかろうとしているのは、他ならぬユダのためでもあったということを意味しています。つまり、イエス様は、ユダに対してもまた、その罪が赦されて、ご自分のいのちが与えられて、新しく生きることを願っておられたということです。イエス様は過越の食事の席にユダを着かせることによって、ユダに対するご自分の愛を余す所なく示されたということです。
 イエス様は、そのユダの罪の深刻さについて記しておられます。「しかし、人の子を裏切るような人間はわざわいです。そういう人は生まれなかったほうがよかったのです。」
 「生まれて来なければよかった」、これほどに厳しいことば、悲しいことばがどこにあるでしょうか。イエス様を裏切ったユダは、イエス様ご自身から、その人生そのものを「わざわい」だと言われたのでした。「生まれて来なければよかった」と言われたのでした。イエス様を裏切るその罪の重さを改めて教えられます。
 しかし、ここで覚えなければならないのは、イエス様がその重い罪を犯すユダを、過越の食事の席に招かれたということです。イエス様は、ユダのためにも、過越の食事に与る席を用意されたのでした。そうして、ユダのためにも、ご自分を過越の子羊として、ささげてくださったのでした。イエス様は、「生まれて来なければよかった」と言わなければならないような罪を犯すユダのために、十字架にかかられたのでした。そうして、ユダに対してもまた、「生まれてきてよかった」と、心から言える人生を歩んでほしいと願われたのです。イエス様はいのちを懸けてユダを愛されたのでした。
 「生まれて来なければよかった」と言わなければならないような人生は一つもありません。イエス様はすべての人を、「生まれてきてよかった」と心から言えるような人生へと招いていてくださいます。私たち一人一人を招いていてくださいます。そしてそのために、十字架にかかってくださいました。ご自分を過越の子羊としてささげてくださいました。ご自分を信じるすべての人が新しいいのちを得るために、さらには続けて養われ支えられるために、ご自分をささげてくださいました。
 イエス様は私たち一人一人をもてなしたいと願っておられます。そのもてなしに与る私たちの喜びを願っておられます。
 感謝して、このイエス様のもてなしに与りたいと思います。そして、この豊かな食卓に与る人が、一人また一人と加えられることを願います。

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