礼拝説教から 2018年9月9日

  • 聖書箇所:マルコの福音書14章22-26節
  • 説教題:主の晩餐
 さて、一同が食事をしている時、イエスはパンを取り、神をほめたたえてこれを裂き、弟子たちに与えて言われた。「取りなさい。これはわたしのからだです。」また、杯を取り、感謝の祈りをささげた後、彼らにお与えになった。彼らはみなその杯から飲んだ。(マルコの福音書14章22-23節)
 イエス様はパンを裂いて、弟子たちに与えられました。パンは裂かれたものでした。イエス様は一つのパンを裂いて、弟子たちに分け与えられたのでした。弟子たち一人一人に、一つずつのパンが与えられたのではなく、一つのパンが裂かれて、弟子たちに分け与えられたのでした。
 杯も同じでした。イエス様が取られた杯は一つでした。イエス様は人数分の杯を準備されたのではありませんでした。イエス様は一つの杯を取られ、弟子たちはその一つの杯から飲んだのでした。
 教会というのは、頭である主イエス・キリストの体です。そして、クリスチャンの一人一人は、その体の部分です。それは、教会が単に同じ信仰を持って集まる仲間たちの集団ということではありません。決して切り離すことのできない一つの体であるということを意味しています。教会は一つの体であり、だからこそ、決して切り離すことができないということです。
 そして、この教会が一つの体であるということを覚えることが、ともに聖餐に与る一つの意味になるのだと思います。私たちは、聖餐式において、ともにパンと杯に与りながら、イエス様の裂かれた体と流された血に与りながら、教会が決して切り離すことのできない一つの体であることを確認しているのです。各々が頭であるイエス様の体と血によって救われ養われる同じ体の部分であることを確認しているのです。
 しかし、教会の現状はどうでしょうか。教会が一つの体などと言うのは、きれいごとに過ぎないと思わされることが、どれほど多いでしょうか。教会もまた、世の中にある様々な組織や団体と何ら変わらないと思わされることが、どれほど多いでしょうか。
 教会には様々な人が集まります。そこには様々な違いがあるでしょう。男女の違い、年齢の違い、育ってきた環境や文化の違い、学歴や所得の違い、実に様々な違いがあるのだと思います。そしてそのために、意見の違いや感情のすれ違いが生じて、人間関係が上手くいかないということも出てきます。深刻な場合には、教会がばらばらになってしまうということも起こってきます。一つの教会であるにもかかわらず、教会は簡単には一つにならないということです。そしてそれは、一つの地域教会のレベルでも言えることであり、一つの地域教会を越えたレベルでも言えることです。
 しかし、逆に「だからこそ」ということになるのではないかと思います。イエス様は私たちのために聖餐を定めてくださいました。一つの体であるにもかかわらず、なかなか一つになることのできない私たちのために、聖餐を定めてくださいました。そうして、私たちがともにパンと杯に与りながら、イエス様の体と血に与りながら、一つの体であることを覚えるように励ましていてくださいます。自分がイエス様の体と血によって救われ養われていることを覚えると同時に、「この人もまた」、「あの人もまた」、同じイエス様の体と血によって救われ養われている方であることを覚えるように励ましていてくださいます。
 聖餐というのは、キリストの体である教会を一つに結びつける絆として、イエス様が与えてくださった恵みの食卓というような言い方をしてもいいのかも知れません。
 聖餐を定めてくださったイエス様に感謝したいと思います。イエス様が定めてくださった聖餐を大切にしていきたいと思います。そうして、大小の様々な問題に直面することがあるとしても、ともに聖餐に与ることによって、教会が一つの体であることを覚えたいと思います。そうして、互いに赦し合い、仕え合って、一致へと向かっていくことができればと思います。

コメントを残す