礼拝説教から 2018年8月26日

  • 聖書箇所:マルコの福音書14章1-9節
  • 説教題:注がれたナルドの香油
 すると、イエスは言われた。「彼女を、するままにさせておきなさい。なぜ困らせるのですか。わたしのために、良いことをしてくれたのです。(マルコの福音書14章6節)
 彼女は、自分にできることをしたのです。埋葬に備えて、わたしのからだに、前もって香油を塗ってくれました。(マルコの福音書14章8節)
 過越の祭りが二日後に迫る中、イエス様が食事をしておられる所へ、一人の女性が入ってきました。その手には、「純粋で非常に高価なナルド油の入った小さな壺」がありました。女性はその壺を割って、イエス様の頭に注ぎました。
 いったい何が起こったのでしょうか。もしかしたら、その場に居合わせた人々も、目の前で起こった出来事をよく理解できなかったかも知れません。少なくとも、好意的には受け取られなかったようです。
 何人かの人は憤慨したと記されています。なぜなら、女性がナルドの香油を無駄にしたからだということです。女性がイエス様の頭に注いだナルドの香油なら、高く売れて(三百デナリ以上、三百日分の労賃)、貧しい人々に施しができたではないかということです。
 どうでしょうか。憤慨した人々の意見はもっともだと言えるのかも知れません。確かに、いくらイエス様が大切な方だからと言って、いっぺんに頭に注いでしまえば、もうそれでおしまいです。これ以上何の役にも立ちません。しかし、それをお金に換えていれば、有効に使うことができるわけです。例えば、貧しい人々に施しをするなどです。何か意味があり、良いことのために使えるわけです。
 憤慨した人々の意見には一理ありました。それはもっともな意見でした。
 この憤慨した人々の批判を聞いて、イエス様は「なぜ困らせるのですか」と言われました。女性は困ってしまったようです。憤慨した人々のもっともな批判によって、女性は困ってしまったのでした。憤慨した人々のもっともな批判、それは女性を困らせることでしかなかったということです。
 批判をすること、正しい意見を言うこと、それはとても大切なことです。しかし、その批判がどんなに正しいものであっても、あるいは正しいからこそと言えるのかも知れませんが、もたらされた結果は、「ただ相手を困らせただけだった」というのが、私たちの現実なのかも知れません。正しい批判が、何らかの改善をもたらすのではなくて、ただ相手を困らせるだけになってしまうのです。
 イエス様は、女性が「わたしのために、良いことをしてくれた」、「自分にできることをした」と言われました。そして、ご自分の頭にナルドの香油を注いだ女性の行動を、「埋葬に備えて」と受け止められました。周りの人々から、無駄遣いをしたとして責められた女性の行動を、実に深い意味のあるものとして受け止めてくださいました。
 注がれたナルドの香油、それは人間の目から見れば、無駄遣いに過ぎないのかも知れません。しかし、それは無駄になったのではありませんでした。過越の子羊として死んでいかれるイエス様の「埋葬に備えて」尊く用いられたのでした。
 しかし、イエス様が「埋葬に備えて」と言われたのは、あくまでもイエス様が女性の行動をそのように受け止めてくださったということです。女性は、間もなくイエス様が十字架にかけられる、イエス様が殺されるということを知っていたわけではありません。女性は間もなく死んでいかれるイエス様の「埋葬に備えて」、ナルドの香油をイエス様の頭に注いだのではないわけです。女性はそんな大それたことを考えていたわけではないのです。
 マルコの福音書には、女性がイエス様の頭にナルドの香油を注いだ理由について、何も記されていません。もしかすると、女性は何も考えていなかったと言った方がいいのかも知れません。女性はただひたすら、愛するイエス様のために大切なものをささげたいという思いだけだったのではないかと思います。イエス様に感謝するゆえに、何よりも大切なものをイエス様にささげたいという思いだけだったのではないかと思います。
 そうした思いから出た女性の行動は、無駄遣いをしたとして批判される余地のあるものでもありました。しかし、イエス様はその女性の行動を、「良いことをしてくれた」、「自分にできることをした」と受け止めてくださったということです。女性自身も想像していなかったような深い意味を、イエス様は与えてくださったのです。
 私たちの奉仕に意味を与えるのは自分自身ではありません。周りの人々でもありません。それはイエス様です。イエス様ご自身が私たちの奉仕に最もふさわしい意味を与えてくださるのです。
 私たちは自分の奉仕をどのように見ているでしょうか。自分は何もできていない、自分の奉仕は何の意味もないと思っていることはないでしょうか。そうして、意味のない奉仕しかできない自分に劣等感を抱いているということはないでしょうか。
 私たちの奉仕、私たちのできること、それはとても小さなものです。あるいは欠けだらけのものであるかも知れません。しかし、イエス様は、ご自分に感謝し、ご自分を愛してなされる小さな奉仕の一つ一つを、とても喜んでいてくださいます。そして、無駄であるどころか、意味がないどころか、実に深い意味のあることとして受け止めていてくださいます。私たちが自分の奉仕に何らかの意味を与えるのではなくて、イエス様ご自身が、私たちの奉仕に深い意味を与えていてくださるのです。
 自分にできること、このことをいつも大切にしていきたいと思います。それがどんなに小さなことであれ、欠けのあることであれ、イエス様を愛するがゆえに、イエス様に感謝するがゆえに、自分にできることを大切にし、また継続していきたいと思います。そうして、その小さな奉仕がイエス様の喜びとなり、教会全体の喜びとなることを心から願います。

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