礼拝説教から 2018年7月1日

  • 聖書箇所:マルコの福音書12章18-27節
  • 説教題:生きている者の神
 死人がよみがえることについては、モーセの書にある柴の箇所で、神がモーセにどう語られたか、あなたがたは読んだことがないのですか。『わたしはアブラハムの神、イサクの神、ヤコブの神である』とあります。神は死んだ者の神ではなく、生きている者の神です。あなたがたは大変な思い違いをしています。(マルコの福音書12章26-27節)
 イエス様は、サドカイ人たちが、復活について大変な思い違いをしていると言われました。そして、「モーセの書にある柴の箇所」を通して、その思い違いについて、気づきを与えようとされました。サドカイ人たちは、モーセ五書を根拠にして、「復活はない」と主張していましたが、イエス様は、まさにそのモーセ五書の中から、神様が復活について語られていることを教えようとされたのでした。
 「モーセの書にある柴の箇所」というのは、出エジプト記3章の冒頭部分です。神様が、燃えているのに燃え尽きない柴の中から、モーセに語りかけられた場面です。その柴の箇所から、イエス様は、「わたしは、アブラハムの神、イサクの神、ヤコブの神である」という神様のことばを引用されました。そして、この神様のことばを土台にして、「神は死んだ者の神ではなく、生きている者の神です。」と主張されました。
 どういうことなのでしょうか。それは、神様が、アブラハム、イサク、ヤコブをまさに生きている者として見ておられるということではないでしょうか。神様は、その生きている者の神として、ご自分がアブラハムの神、イサクの神、ヤコブの神だと言われたのだということではないでしょうか。
 モーセの時代、アブラハム、イサク、ヤコブはすでに死んでいました。モーセにとって、アブラハム、イサク、ヤコブはすでに過去の人でした。しかし、神様の前で、アブラハム、ヤコブ、イサクはなおも生きている者とされていたのです。イエス様は、その神様のことばに込められている復活の事実を教えてくださったということです。
 生きている者の神様は、私たちをもご自分の民としてくださいました。私たち一人一人に対しても、「わたしはあなたの神である」と語りかけてくださっています。
 それは、私たちが「一度死んで終わり」というような人生を生きているということではありません。神様とともに永遠に生きる復活のいのちが与えられるということです。神様の愛に完全に満たされて、神様とともに生きる復活のいのちが約束されているということです。
 私たちは毎週日曜日に、イエス様の復活を喜び、記念するために集まっています。それは、イエス様の復活が、私たちの復活に先駆けるものであり、私たちの復活を保証するものでもあるからです。
 毎週日曜日の礼拝に集いながら、私たちの罪を贖うために十字架の上で死んで、三日目に復活されたイエス様を見上げることができればと思います。そうして、イエス様が復活された事実を確認し、信仰と希望を持って、また感謝と恐れを持って、復活のいのちが与えられる日のために、忠実に歩むことができればと思います。

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