礼拝説教から 2018年7月8日

  • 聖書箇所:マルコの福音書12章18-34節
  • 説教題:愛しなさい
 イエスは、彼が賢く答えたのを見て言われた。「あなたは神の国から遠くない。」それから後は、だれもイエスにあえて尋ねる者はいなかった。(マルコの福音書12章34節)
 イエス様とサドカイ人たちの復活に関するやりとりを聞いていた一人の律法学者が質問をしました。「すべての中で、どれが第一の戒めですか。」それに対して、イエス様は答えられました。「第一の戒めはこれです。『聞け、イスラエルよ。主は私たちの神。主は唯一である。あなたは心を尽くし、いのちを尽くし、知性を尽くし、力を尽くして、あなたの神、主を愛しなさい。』第二の戒めはこれです。『あなたの隣人を自分自身のように愛しなさい。』これらよりも重要な命令は、ほかにありません。」
 このイエス様の答えに律法学者はとても満足したようです。イエス様の答えに心から納得して、「主は唯一であって、そのほかに主はない、とあなたが言われたことは、まさにそのとおりです。」と言いました。そして、それだけではなくて、自分のコメントまで付け加えました。「そして、心を尽くし、知恵を尽くし、力を尽くして主を愛すること、また、隣人を自分自身のように愛することは、どんな全焼のささげ物やいけにえよりもはるかにすぐれています。」律法学者は、イエス様の答えに対して、心からの共感を示しました。
 イエス様はこの律法学者が賢く答えたと言われました。そして、「あなたは神の国から遠くない。」と言われました。
 「遠くない」というのは、どういうことでしょうか。それは、「まだ離れている」ということではないでしょうか。「決して遠い所にいるわけではないけれども、まだ離れている」ということです。「あなたは神の国から近い所にいる、決して遠い所にいるのではない、しかし、まだその神の国の中にいるのではない」ということです。イエス様は、律法学者が「賢く答えた」と認められましたが、だからと言って、彼がそのまま神の国の中にいるということを認められたわけではありませんでした。
 私は、この律法学者の答えを見ると、実に気軽に返事をしているなぁという感じがしました。神様のことばの重みと言えばいいのでしょうか、衝撃と言えばいいのでしょうか、そのようなものを何も感じていないのかなぁという印象を受けました。何の悩みも苦しみもなく、「そうです、その通りです、神様を愛すること、隣人を愛することこそが何よりも大切なことです」と答えているようなのです。「神様を愛しなさい」ということば、「隣人を愛しなさい」ということば、この神様ご自身のことばの重みや衝撃を何も感じることなく、ただ頭で理解して、「そうだ、そうだ」と答えているようなのです。「自分は果たして、存在のすべてをかけて神様を愛しているのか、隣人を自分自身のように愛しているのか、神様の命令を守り行っているのか」と、真摯に問いかけているようではないのです。神様のことばに忠実に従おうと努力し、しかし、それができない自分の姿に絶望したり、愕然としたりしているようではないのです。神様のことばと真摯に向き合いながら、その重みを噛みしめているようではないのです。
 神様のことばに忠実に従おうとする時、私たちは自分がいかに、神様のみこころから遠く離れているかを認めざるを得ません。そして、自分の努力によっては、その距離を少しも縮めることができないことを認めざるを得ません。神様のことばの重みを痛いほどに教えられることになります。
 しかし、今日の本文に出てきた律法学者はそうではなかったようです。それは、彼が神様のことばを、イエス様のことばを頭でしか理解していなかったからということになるのでしょう。律法学者は神様のことばを暗記するほどに、よく読んでいたかも知れませんが、その神様のことばと真摯に向き合っていたわけではなかったということです。
 繰り返しになりますが、その律法学者に対して、イエス様は「あなたは神の国から遠くない」と言われました。このイエス様のことばは、「あなたは決して神の国から遠い所にいるのではないけれども、まだその中にいるのではない」ということを意味していると言いました。しかし、それは同時に、「すでに神の国の中に入れられているわけではないけれども、だからと言って、決して遠い所にいるのではない」という意味でもあります。律法学者は神の国まで「もう一歩」という所にいるということです。
 律法学者は神の国まで「もう一歩」の所にいました。実に近い所にいました。どうしてでしょうか。それは、神の国の王であるイエス様ご自身が目の前におられたからです。律法学者が自分の力では決して縮めることのできない神の国への距離を、完全に縮めてくださったイエス様ご自身が、目の前におられたからです。律法学者に必要だったのは、そのイエス様の前で、自分が神様を愛することのできない者であることを、隣人を愛することもできない者であることを認めることでした。そしてそのような自分を愛し、その罪が赦されるために、十字架にかかって罰を受けようとしておられるイエス様を、救い主として信じて受け入れることだけでした。イエス様に従っていくことだけでした。律法学者は実に神の国からすぐ近い所にいたのでした。
 大切なことは何でしょうか。それは賢く答えることではありません。そうではなくて、神様のことばの中で、自分の姿を見つめることです。イエス様の支配される神の国まで近づくことはできても、決して到達することのできない自分の姿を知ることです。そして、同じその神様のことばの中から、私たちを愛するがゆえに、神の国の王であるイエス様ご自身が、ご自分の体を犠牲にして、神の国への扉を開いてくださったことを知ることです。そのイエス様の招きに従って、神の国に入ることです。
 神の国の王であるイエス様は、私たちの所に来てくださいました。神の国から遠く離れている人は誰もいません。
 私たちが一人も漏れることなく、イエス様を信じて神の国の民とされることを願います。イエス様の愛を受け入れて、私たちもまた愛する者へと変えられていくことができればと思います。神様を愛し、隣人を愛する者へと変えられていくことを心から願います。

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