礼拝説教から 2018年6月24日

  • 聖書箇所:マルコの福音書12章13-17節
  • 説教題:神のものは神に
 するとイエスは言われた。「カエサルのものはカエサルに、神のものは神に返しなさい。」彼らはイエスのことばに驚嘆した。(マルコの福音書12章17節)
 祭司長たち、律法学者たち、長老たちは、「パリサイ人とヘロデ党の者を数人」、イエス様の所に遣わしました。もちろん、イエス様を陥れるためです。
 そして、このパリサイ人たちとヘロデ党の人々は厄介な質問を考え出しました。それは、カエサルに税金を納めることについてでした。カエサルに税金を納めることは、律法にかなっているか否かということでした。
 「カエサルに税金を納めることは律法にかなっていない」と答えることは、ローマ皇帝、ローマ帝国に対して反逆を宣言することでした。ローマ帝国を受け入れているヘロデ党の人々にとっては、イエス様を反逆者として捕え、ローマ総督に引き渡す口実になるでしょう。
 反対に、「カエサルに税金を納めることは律法にかなっている」と答えることは、ローマ帝国の支配を苦々しく思っているユダヤの人々の期待を裏切ることでした。イエス様のことを救い主かも知れないと期待しているユダヤの人々を失望させることでした。
 この厄介な質問を受けたイエス様は、ローマ皇帝への税金として納める時に用いられるデナリ銀貨の肖像と銘が誰のものであるかを確認した上で、言われました。「カエサルのものはカエサルに、神のものは神に返しなさい。」
 イエス様は「カエサルのものはカエサルに」と言われました。これは、ローマ皇帝に税金を納めなさいということを意味しています。イエス様は、ユダヤの人々がローマ皇帝に税金を納めることを認められたのでした。ユダヤの人々がローマ帝国の支配の下で生きることを認められたのでした。
 しかし、イエス様はその一方で言われました。それは、「神のものは神に」ということでした。イエス様は、ローマ皇帝のものをローマ皇帝に返すように教える一方で、神様のものを神様に返すように教えられたのです。イエス様は、ユダヤの人々が神様に選ばれた民としてふさわしく生きる道を、はっきりと示されたのでした。それは、ローマ帝国の支配や権力を受け入れながら、同時に神様のものを神様に返すという生き方でした。もちろん、強調点が置かれているのは、神様のものを神様に返すということです。
 神様のもの、それは大きく二つのことが言えると思います。
 一つは、この世界そのものです。この世界そのものが神様のものであること、それは聖書全体の始まりの部分から言えることでしょう。創世記1章1節です。<はじめに神が天と地を創造されました。> また、詩篇24章1-2節では、<地とそこに満ちているもの↩世界とその中に住んでいるもの↩それは主のもの。↩主が 海に地の基を据え↩川の上に それを堅く立てられたからだ。>と歌われています。
 神様のもの、それは「ここからここまで」と言えるようなものではありません。教会の敷地内に入ったら、そこは神様のもので、教会の外に出ると、そこはもう、神様のものではなくなるというようなことではありません。日曜日だけが神様のもので、月曜日から土曜日までは神様のものではないということでもありません。私たちの生きているこの世界そのもの、私たちに与えられている時間そのものが、神様のものだということです。
 そしてもう一つ、神様のものと言えるもの、私たち自身ということになるでしょう。
 イエス様は、デナリ銀貨をローマ皇帝のものであるとして、ローマ皇帝に返しなさいと言われました。どうしてデナリ銀貨はローマ皇帝のものだということになるのでしょうか。それは、デナリ銀貨にローマ皇帝の肖像と銘が刻まれているからです。
 肖像というのは、ある人の顔や姿を表した絵や写真、彫刻などです。必ずしもそうだとは言えないのかも知れませんが、基本的には本人に似せて作られたものだと言えるでしょう。それは、「似姿」という言い方をしても良いのかも知れません。デナリ銀貨は、ローマ皇帝の肖像、つまり似姿が刻まれており、その名前が刻まれているために、ローマ皇帝のものだということが言えるわけです。
 創世記1章26節を見てみたいと思います。<神は仰せられた。「さあ、人をわれわれのかたちとして、われわれの似姿に造ろう。こうして彼らが、海の魚、空の鳥、家畜、地のすべてのもの、地の上を這うすべてのものを支配するようにしよう。」> 創世記で語られていることは何でしょうか。それは、人が神様の似姿として造られたということです。
 つまり、どういうことでしょうか。神様は、私たちにご自身の肖像、似姿を刻み付けておられるということです。私たちにご自身の似姿を刻み付けて、「あなたはわたしのものだ」と言っておられるということです。私たちには、神様の似姿が刻まれているのであり、私たちは神様のものだということです。
 イエス様は、神様のものは神様に返しなさいと言われました。それは、神様のものを神様のものとして認めることです。この世界そのものが神様のものであり、私たち自身が神様のものであることを認めることです。私たちが、この世界や自分自身の主人なのではなくて、神様が主人であることを認めることです。その主人である神様の支配を受け入れて生きることです。
 私たちはどうでしょうか。私たちは神様のものを神様にお返ししているでしょうか。神様のものを自分のものとしてしまっていることはないでしょうか。神様の似姿が刻まれている所に、自分自身の似姿を刻み直していることはないでしょうか。
 イエス様は、神様のものは神様に返しなさいと言われました。このイエス様のことば、イエス様の招きに従うことができればと思います。すべてを神様にお返しして生きることができればと思います。そして、そのような歩みの中で、私たちが互いの姿の中に、神様の似姿を見いだすことができればと思います。

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