礼拝説教から 2018年6月17日

  • 聖書箇所:マルコの福音書12章1-12節
  • 説教題:私の息子なら
 しかし、主人にはもう一人、愛する息子がいた。彼は『私の息子なら敬ってくれるだろう』と言って、最後に、息子を彼らのところに遣わした。(マルコの福音書12章6節)
 イエス様はご自分を陥れようとしている祭司長たち、律法学者たち、長老たちに対して、「たとえ」で話を始められました。
 「ある人」が「ぶどう園」を造りました。そして、その「ぶどう園」を「農夫たち」に貸して旅に出ました。やがて、収穫の時になると、「ある人」、つまり、「ぶどう園」の主人は、収穫の一部を受け取るために、「しもべ」を遣わしました。しかし、「農夫たち」は、その「しもべ」をひどい目に遭わせて送り返しました。主人は、また別の「しもべ」を遣わしましたが、結果は同じでした。主人は、諦めることなく、多くの「しもべ」を遣わしまたが、「農夫たち」は同じようにひどい目に遭わせたり、殺してしまうこともありました。
 「ぶどう園」は誰のものでしょうか。それは、「ぶどう園」の主人のものです。その「ぶどう園」から出た収穫は誰のものでしょうか。それもまた、主人のものなのではないでしょうか。
 「農夫たち」に求められていたのは、その主人のものである「ぶどう園」から出た収穫の一部を、主人に返すことでした。主人のものを主人のものとして、そうして、主人との正しい関係の中で、「ぶどう園」を管理していくことでした。そうであるにもかかわらず、「農夫たち」は、主人から委ねられた「ぶどう園」とその収穫を、すべて自分たちのものにしようとしたのでした。自分たちが主人になって、本当の主人から、「ぶどう園」を奪い取ろうとしたのでした。
 「農夫たち」がしたこと、それは主人のものを自分たちのものにすることでした。本当の主人を追い出して、自分たちが主人となることでした。
 私たちはこの「農夫たち」の行為を見ると、とんでもないことと思うかも知れません。「何という連中か」と思うかも知れません。
 しかし、どうでしょうか。私たちには、「農夫たち」のように、主人のものを自分のものであるかのように主張していることはないでしょうか。主人である神様のものを、自分のものであるかのように考え、主張していることはないでしょうか。
 私たちのいのちは自分自身で作り出したものではありません。それは神様が与えてくださったものです。神様が私たちにいのちを与え、その人生を委ねてくださったのです。そうすると、私たちのいのち、私たちの人生、それは私たちのものでありながら、根本的には神様のものだと言えるでしょう。私たちは、神様からいのちが与えられ、その人生が委ねられているのです。私たちの主人は私たち自身ではなく、神様だということです。
 そうであるならば、大切なことは何でしょうか。それは、何よりもまず、自分のいのち、自分の人生が神様のものであることを認めることではないでしょうか。自分自身が自分の主人なのではなくて、神様こそが主人であることを認めることです。そうして、主人である神様に感謝し、神様との良い関係の中で、生かされることです。
 主人は、最後に愛する息子を遣わしました。主人は、「私の息子なら敬ってくれるだろう」と言っています。
 どうでしょうか。これまでにも、何人もの「しもべ」がひどい目に遭わされているのです。「農夫たち」が主人を主人として認めていない、主人を主人として敬っていないことは明らかなのではないでしょうか。主人である自分を軽んじている、蔑ろにしていることは明らかなのです。そんな「農夫たち」の所に、残された「愛する息子」を遣わすなどというのは、あり得ないことではないでしょうか。そうであるにもかかわらず、主人は「愛する息子」を遣わしたのです。しかも、「私の息子なら敬ってくれるだろう」と言ってです。
 「私の息子なら敬ってくれるだろう」、このことばから、たくさんの「しもべ」をひどい目に遭わせた「農夫たち」に対する怒りを感じることはできません。何としてでも、年貢を取り立ててやろうとする、欲の深い地主のような姿を見ることはできません。
 むしろそこには、何度裏切られても、それでもなお、「農夫たち」を愛し、彼らとの良い関係を築こうとしている姿を見ることができるのではないかと思います。「農夫たち」との関係そのものを大切に考えている姿を見ることができるように思います。そうして、「農夫たち」とともに、「ぶどう園」を管理していきたいと願う姿を見ることができるように思います。
 「私の息子なら敬ってくれるだろう」、このことばとともに、神様は「愛する息子」イエス様を私たちの所に遣わしてくださいました。私たちとの関係が回復することを願って、私たちとともに生きることを願って、御子イエス様を遣わしてくださいました。
 「私の息子なら敬ってくれるだろう」、このことばに込められた、私たち一人一人に対する神様の愛と赦しを見ることができればと思います。神様を主人として認め、敬い、神様のものとして生きる恵みに与ることができればと思います。そうして、その一歩一歩が神様の豊かな実を結んでいくことにつながればと思います。

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