礼拝説教から 2018年6月10日

  • 聖書箇所:マルコの福音書11章27-33節
  • 説教題:神の権威に従い、人の権威に従わない
 ヨハネのバプテスマは天から来たのですか、それとも人から出たのですか。わたしに答えなさい。」(マルコの福音書11章30節)
 一般的に「宮きよめ」と呼ばれる出来事の後、祭司長たち、律法学者たち、長老たちは、イエス様の権威を問題にしました。「何の権威によって」、これらのことをしているのかというのです。
 その祭司長たち、律法学者たち、長老たちに対して、イエス様は逆に質問をされました。<ヨハネのバプテスマは、天から来たのですか、それとも人から出たのですか。> このイエス様の質問に、彼らは困ってしまうことになりました。なぜなら、彼らはバプテスマのヨハネを信じていなかったからです。
 祭司長たち、律法学者たち、長老たちはバプテスマのヨハネを認めていませんでした。そしてそのために、イエス様の質問に対して、「天から」と答えることができませんでした。なぜなら、「天から」と答えることは、バプテスマのヨハネが天におられる神様の権威の下で洗礼を授けていたこと認めることであり、そのヨハネを受け入れていない自分たちが、神様の権威に従っていないということを、自ら告白することになるからでした。
 しかし、だからと言って、「人から」と答えることもできませんでした。なぜなら、多くの人々はバプテスマのヨハネのことを神様から遣わされた預言者だと信じていたからです。祭司長たち、律法学者たち、預言者たちは、多くの人々が認めているバプテスマのヨハネを認めないことによって、人々の支持を失うことを恐れたのです。
 「ヨハネのバプテスマは、天から来たのですか、人から出たのですか」、祭司長たち、律法学者たち、長老たちにとって、これは単なるクイズではありませんでした。このイエス様の質問によって、彼らは神様の権威に対する自分たちの姿勢を問われることになったのでした。彼らは、イエス様の権威を問題にしましたが、逆に、神様の権威に対する自分たちの姿勢がどうなのかを、問われることになったのでした。「自分たちが大切にしていることは何なのか、それは神様の権威に従うことなのか、それとも、自分たちの権威を守ることなのか」という問題に直面させられたのです。
 神様を信じるということ、イエス様を信じるということ、それは自分が権威が失われることを認めることです。自分の権威をイエス様に明け渡すことに他なりません。自分が自分の人生の主導権を握り続けていることを止めて、主導権をイエス様に明け渡すことです。自分が自分の主であることを止めて、イエス様に主となっていただき、そのイエス様の権威に従うことです。そうして、イエス様によって変えられることを受け入れ続けていくことです。
 私たちはどうでしょうか。私たちもまた、祭司長たち、律法学者たち、長老たちのように、自分の権威を守ることに必死になっているということはないでしょうか。そうして、イエス様の権威に従うことを拒んでいるということはないでしょうか。イエス様によって変えられることを拒んでいるということはないでしょうか。あるいは、大筋ではイエス様の権威に従っているようでも、「ここだけは」と思う所、「ここだけはイエス様にも触れてもらいたくない」というような所を残しているようなことはないでしょうか。
 私たち一人一人、いつもイエス様の十字架を見上げることができればと思います。イエス様の十字架を見上げながら、神の権威を手放して、私たちにその身を委ねてくださったイエス様によって、愛され、生かされていることを覚えたいと思います。そうして、今度は私たちがそのイエス様に、まことの主であるイエス様に、自分の権威を明け渡すことができればと思います。私たち自身よりも、私たちのことをよく知っておられ、愛しておられるイエス様が望まれる姿に変えていただくことができればと思います。

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