礼拝説教から 2018年4月22日

2018年4月22日
マルコの福音書10章32-45節
仕えるために、いのちを与えるために
 人の子も、仕えられるためではなく仕えるために、また多くの人のための贖いの代価として、自分のいのちを与えるために来たのです。(マルコの福音書10章45節)
 イエス様がこの世界に来てくださった目的、それは、私たちに仕えることでした。仕えられることではなくて、仕えることでした。そうして罪の支配の中で、滅びへと向かう私たちに、ご自分のいのちを与えることでした。
 ここには、何か他の目的が語られているわけではありません。仕えること、ご自分のいのちを与えることが、何か他の目的の手段として語られているのではありません。仕えること、ご自分のいのちを与えることが、目的そのものとして語られているのです。イエス様は、私たちに仕えることそのものを目的として、私たちにご自分のいのちを与えることそのものを目的として、この世界に来てくださったということです。イエス様はまさに、私たちに仕えるために、私たちにご自分のいのちを与えるために、この世界に来てくださったのでした。
 イエス様は私たちに仕えてくださいました。私たちがイエス様に仕えたのではなく、イエス様が私たちに仕えてくださったのです。その仕えてくださった結果として、私たちに新しく生きる道が開かれました。イエス様のいのちに与って生きる道が開かれました。
 毎週の礼拝の中で、仕えてくださったイエス様を覚え、イエス様に感謝したいと思います。そうして、いつもここから、一週間の歩みをスタートしたいと思います。仕えてくださったイエス様の豊かな恵みに与って、仕える者としての歩みを、仕えることそのものを目的とした歩みを、スタートしたいと思います。

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