礼拝説教から 2018年4月15日

2018年4月15日
マルコの福音書10章23-31節
神の国に入ること
 イエスは、周囲を見回して、弟子たちに言われた。「富を持つ者が神の国に入るのは、なんと難しいことでしょう。」(マルコの福音書10章23節)
 イエス様は、自分が何かをすることによって、永遠のいのちを受け取ることができると考えていた「ひとりの人」の出来事、自分の持っている物を貧しい人々のために手放すことができなくて、悲しみながら立ち去った「ひとりの人」の出来事を踏まえて、弟子たちに言われました。「富を持つ者が神の国に入るのは、なんと難しいことでしょう。」
 富というのは何でしょうか。それはお金だけではありません。それによって、神様の関心を得ることができる、神様に喜んでいただけると思うものであるなら、それらはすべて富になります。それは、道徳的に正しく生きているということであるかも知れません。素晴らしい業績を残したということであるかも知れません。あるいは、熱心に奉仕しているということであるかも知れません。いずれにしろ、神様の関心を得るために、神様に喜んでいただくために、神の国に入る資格や条件のようなものとして、神様の前に持って行くことができると思うものであるなら、それらはすべて富になります。
 「ひとりの人」は熱心に十戒の教えを守り行っていました。理解の浅さはあったとしても、そこに偽りはなかったのではないかと思います。「ひとりの人」は確かに神様の教えである十戒を大切にし、それを守り行おうとしてきたのだと思います。そして、そのことによって、永遠のいのちを受け継ぎたい、受け継ぐことができると考えていたのです。神様のみこころにかなった良い行いを、神様の前に持って行くことのできる富として蓄え、その自分の富によって、永遠のいのちを報いとして受け継ごうとしていたのでした。そして、当然のことながら、「ひとりの人」は失敗をしたのでした。
 私たちはつい何かをしようとします。何かをしなければならないと思います。自分の持っている富を、神様の前に持って行こうとします。そうして、神様に喜んでいただこうとします。
 もちろん、何かをするということは、とても大切なことです。誠実に生きる、熱心に奉仕をする、良い行いをする、こうしたことはとても大切なことです。神様が喜んでくださることです。
 しかし、そうであるにもかかわらず、同時に覚えておかなければならないのは、私たちが仮に何かをすることができないとしても、神様はいつも私たちを喜んでいてくださり、私たちに関心を持っていてくださるということです。「こんなことをしました、あんなことをしました」という富がなくても、神様は私たちを喜んでいてくださるということです。神様は、私たちが何かをする以上に、私たちの存在そのものを喜んでいてくださるということです。
 大切なことは何でしょうか。それは、私たちが何かをすることによって、神様に喜んでいただくことではありません。自分の持っている富を、神様の前に持って行くことではありません。そうではなくて、私たちの存在そのものを喜んでいてくださる神様の愛を感謝して受け取ることです。私たちの存在そのものを喜んでいてくださる神様の愛に支えられて生きることです。私たちの罪が赦されるために、私たちが新しいいのちに生かされるために、十字架にかかって死に、復活してくださったイエス様の愛に支えられて生きることです。イエス様という富を、恵みとして受け取ることです。その恵みに満たされて、感謝と喜びを持って生きることです。それが、神様の救いに与ることであり、神の国に生きることであり、永遠のいのちを受け継ぐことです。
 私たちはどのような富を持っているでしょうか。神様の前に持って行くことができると思うもの、神様の関心を得るために、神様に満足していただくために、神の国に入ることをより確かなものとするために、持って行くことができると思うものがあるでしょうか。
 イエス様は、私たちがそのような自分の富から自由にされることを願っておられます。自分の富によって生きるのではなく、ただイエス様の愛、イエス様という富に支えられて生きることを願っておられます。

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