礼拝説教から 2018年4月8日

2018年4月8日
マルコの福音書10章17-22節
いつくしみのまなざし
 イエスは彼を見つめ、いつくしんで言われた。「あなたに欠けていることが一つあります。帰って、あなたが持っている物をすべて売り払い、貧しい人たちに与えなさい。そうすれば、あなたは天に宝を持つことになります。そのうえで、わたしに従って来なさい。」(マルコの福音書10章21節)
 『広辞苑』で「慈しむ」を調べてみると、<愛する。かわいがる。大切にする。」と説明されています。そして、「わが子を慈しむ」という例文が挙げられています。「慈しむ」というのは、子どものような小さな存在、弱い存在を愛し、かわいがり、大切にするというような意味になるでしょうか。
 イエス様は「永遠のいのちを受け継ぐ」ことを願って、その方法を教わるために来た「ひとりの人」を、いつくしみのまなざしで見つめられました。律法をすべて守っていると自負しながらも、なお欠けがあることを自覚し、その欠けが何であるかを知りたくて、その欠けを補いたくて、ご自分の所に来た「ひとりの人」を、イエス様はいつくしみのまなざしで見つめられました。神様の教えを守り行うことができないにもかかわらず、当然のように守り行っていると思っている、無知で傲慢な「ひとりの人」を、いつくしみのまなざしで見つめられました。弱く小さな存在として見つめられました。愛されるべき、かわいがられるべき、大切にされるべき存在として見つめられました。
 イエス様は自分の罪に気づいていない無知で傲慢な「ひとりの人」を、むしろ弱く小さな存在としていつくしまれたのです。
 「ひとりの人」が知りたがっていた自分の欠け、それは表面的には、全財産を売り払って、貧しい人々に分かち合うことができなかったということになるのかも知れません。しかし、本当に欠けていたのは、そのような一つの行いではなかったのではないでしょうか。本当に欠けていたのは、何かの行いではなくて、イエス様が自分をいつくしみのまなざしで見つめていてくださることに、気づかなかったということなのではないかと思います。イエス様が、そのいつくしみのまなざしの中で、実は欠けだらけの自分をそのままに受け入れていてくださることに、気づかなかったということなのではないかと思います。罪人でありながら、罪人であることに気づいていない自分を、いつくしんでいてくださるイエス様を知ることができなかったということなのではないかと思います。
 確かに、「ひとりの人」は、「すべての財産を売り払って、貧しい人々に分かち合いなさい」というイエス様の命令を行うことができませんでした。しかし、そうであるにもかかわらず、イエス様のいつくしみのまなざしの中で、「ひとりの人」の前には、イエス様の恵みに与る道が開かれていたのでした。イエス様の命令を行うことができないにもかかわらず、そのことを認めて、ただひたすらイエス様のあわれみを乞い願う者に与えられる永遠のいのちを、恵みとして受け取る道が開かれていたのでした。イエス様とともに、新しいスタートを切る恵みの道が開かれていたのでした。
 イエス様は私たちにもいつくしみのまなざしを注いでいてくださいます。このイエス様のいつくしみのまなざしが注がれていることを覚えながら、受け入れられている恵み、赦されている恵み、生かされている恵みを感謝したいと思います。

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