礼拝説教から 2018年4月29日

2018年4月29日
マルコの福音書10章46-52節
呼んでおられるイエス様
 彼は、ナザレのイエスがおられると聞いて、「ダビデの子のイエス様、私をあわれんでください」と叫び始めた。(マルコの福音書10章47節)
 バルティマイという目の見えない物乞いは、イエス様に対して、「私をあわれんでください」と叫びました。
 「あわれんでください」というのは、どういうことでしょうか。それは、自分には、相手の好意や親切を受けるために、あるいは赦されるために、持っていなければならないものが何もないということを弁えていて、その上で、相手の好意や親切、赦しを願うことです。相手の一方的な好意や親切、あるいは赦しを願うことです。そして、仮に相手がこちらの願いを聞いてくれないとしても、そのことで文句を言う資格がないことを弁えていることです。
 「あわれんでください」、それは、自分には何もないということを知っている人でなければ、言えないことばなのではないかと思います。相手の好意や親切、あるいは赦しを得るために必要な何かを何も持っていないということを、知っている人でなければ、言えないことばなのだと思います。
 バルティマイは、「ナザレのイエス」という名前を耳にした時、「この人なら」という希望を持ったことでしょう。あるいは、心待ちにしていた「ナザレのイエス」、「ダビデの子のイエス様」が「ついに来てくださった」と思ったかも知れません。
 しかし、バルティマイには何もありませんでした。自分には、イエス様に関心を持っていただくために、イエス様の好意や親切を受けるために必要な何かが何もないことを、よく知っていました。そしてそのために、バルティマイは、ただひたすら、大きな声で「私をあわれんでください」と叫ぶことしかできませんでした。ただひたすら、イエス様の一方的なあわれみを求めることしかできませんでした。そうして、人々にたしなめられるのも聞かずに、何度も叫んだのでした。
 イエス様はそのバルティマイの叫びに答えてくださいました。バルティマイはイエス様の救いに与ったのでした。あわれみ深いイエス様の救いに与ったのでした。
 イエス様はあわれみ深い方です。あわれみを必要とする私たちの叫びに答えてくださる方です。
 大切なことは、そのあわれみ深いイエス様を知ることです。私たちもまた、バルティマイと同じように、イエス様の好意や親切を、赦しを受ける条件を何も備えていない罪人であることを知り、イエス様のあわれみなしには生きることのできない罪人であることを知り、その私たちをイエス様があわれんでいてくださることを知ることです。イエス様は私たちをあわれんでくださったからこそ、十字架にかかってくださったということを知ることです。
 いつも十字架の前に止まっていたいと思います。その十字架の前で、私たちがイエス様のあわれみなしには生きることのできない罪人であることを知り、その罪人の私たちをイエス様があわれんでくださったことを知りたいと思います。

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