礼拝説教から 2018年2月4日

2018年2月4日
マルコの福音書9章2-8節
イエス様の栄光
 また、エリヤがモーセとともに彼らの前に現れ、イエスと語り合っていた。(マルコの福音書9章4節)
 ペテロとヤコブとヨハネ、この三人の弟子たちは、イエス様に連れられて、高い山に登りました。そして、その高い山の上で、イエス様が栄光の輝きに包まれた姿に変わり、モーセやエリヤと語り合っておられる場面を垣間見ることになりました。
 栄光の輝きに包まれたイエス様は、旧約聖書の代表的な人物、モーセ、エリヤと語り合っておられました。マルコの福音書では、ここで語り合われている内容については、具体的には何も記されていません。しかし、同じ出来事を記しているルカの福音書9章30-31節を見ると、推測をすることができると思います。<そして、見よ、二人の人がイエスと語り合っていた。それはモーセとエリヤで、栄光のうちに現れ、イエスがエルサレムで遂げようとしておられる最期について、話していたのであった。> 
 ルカの福音書によると、イエス様がモーセやエリヤとともに語り合っておられたことというのは、ご自分が「エルサレムで遂げようとしておられる最期」、つまり十字架の死についてだったということになります。イエス様は、ご自分がエルサレムで十字架にかかって死ぬことについて、モーセやエリヤと語り合っておられたということです。そして、この十字架の死について語り合っておられたイエス様が栄光の輝きに包まれておられたのでした。
 栄光の輝きに包まれたイエス様は、十字架の死について語っておられました。神としての偉大な力を示して、人々に勝利と解放をもたらし、人々の称賛を受けることになると語っておられたのではありませんでした。そうではなくて、罪人として十字架にかけられて死ぬということを語っておられたのでした。
 つまり、どういうことでしょうか。イエス様の栄光というのは、十字架の死を抜きにしては語ることができないようなものだということになるでしょう。イエス様の栄光というのは、十字架の死を通らなければならないものであり、十字架の死においてこそ輝くようなものだということです。そして、ペテロを始めとした弟子たちが向き合わなければならなかったのは、栄光を受けられるイエス様が十字架の死に向かって進んでおられるという事実でした。
 三人の弟子たちとともに高い山に登られる前、イエス様はご自分が「多くの苦しみを受け、長老たち、祭司長たち、律法学者たちに捨てられ、殺され、三日目によみがえらなければならない」ことを、弟子たちに教え始められていました。そして、この十字架の死と復活についての教えを理解しきれているわけではない弟子たちと群衆にたちに、「自分の十字架を負って」従ってくるように招かれていたのでした。
 いつも、自分の十字架を負って、イエス様に従っていくことができればと思います。

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