礼拝説教から 2018年2月11日

2018年2月11日
マルコの福音書9章9-13節
死人の中からよみがえる時までは
 さて、山を下りながら、イエスは弟子たちに、人の子が死人の中からよみがえる時までは、今見たことをだれにも話してはならない、と命じられた。(マルコの福音書9章9節)
 イエスは彼らに言われた。「エリヤがまず来て、すべてを立て直すのです。それではどうして、人の子について、多くの苦しみを受け、蔑まれると書いてあるのですか。>(マルコの福音書9章12節)
 「変貌山」という言い方のされる山を下りる時、三人の弟子たちは互いに論じ合って、イエス様に尋ねました。「なぜ、律法学者たちは、まずエリヤが来るはずだと言っているのですか。」
 律法学者たちは、自分たちの待ち望んでいる救い主が来る前に、「まず、エリヤが来るはずだ」と考えていました。そして、律法学者たちの見解では、エリヤはまだ来ておらず、従って、話題になっているイエスは救い主でも何でもないということでした。
 弟子たちは、この律法学者たちの見解が気になっていたようです。弟子たちは、「このままイエス様について行って大丈夫なのだろうか」、「『長老たち、祭司長たち、律法学者たちに捨てられ、殺され』などと言い始めたイエス様は、本当に救い主なのだろうか」と、いささか不安になっていたようです。栄光の輝きに包まれたイエス様を目の当たりにし、「これはわたしの愛する子。彼の言うことを聞け。」という雲の中からの声を聞いたにもかかわらず、弟子たちはいささか不安を感じていたようです。
 その弟子たちに、イエス様はエリヤについての答えを示されるとともに、一つのことを問いかけられました。「それではどうして、人の子について、多くの苦しみを受け、蔑まれると書いてあるのですか。」
 イエス様が「書いてある」と言われたのは、恐らくはイザヤ書53章のことでしょう。イザヤ書53章3-6節を見てみます。<彼は蔑まれ、人々からのけ者にされ、悲しみの人で、病を知っていた。人が顔を背けるほど蔑まれ、私たちも彼を尊ばなかった。まことに、彼は私たちの病を負い、私たちの痛みを担った。それなのに、私たちは思った。神に罰せられ、打たれ、苦しめられたのだと。しかし、彼は私たちの背きのために刺され、私たちの咎のために砕かれたのだ。彼への懲らしめが私たちに平安をもたらし、その打ち傷のゆえに、私たちは癒された。私たちはみな、羊のようにさまよい、それぞれ自分勝手な道に向かって行った。しかし、主は私たちすべての者の咎を彼に負わせた。> 
 人々は、大きな力によって勝利と解放をもたらす英雄のような救い主の姿を期待していたことでしょう。三人の弟子たちが「変貌山」で見たイエス様の姿というのは、まさに自分たちの期待する救い主のイメージとピッタリと一致していたと言えるのかも知れません。
 しかし、イエス様が「書いてある」と言って示された救い主の姿とはどのようなものでしょうか。それは、「多くの苦しみを受け、蔑まれる」ような姿でした。「好き勝手なこと」をする人々から蔑まれるような姿であり、神によって罰せられ、打たれ、苦しめられたのだと誤解されるような姿でした。それは、人々の期待する、栄光に包まれた姿ではありませんでした。むしろ、人々から蔑みの目を注がれるような姿でした。
 しかし、イザヤ書53章に「書いてある」のは、それだけではありません。そこに「書いてある」のは、そのような救い主の苦しみによって、私たちに平安と癒しがもたらされたということです。真の「平安」と「癒し」は、救い主の苦しみによってもたらされるのだということです。
 イエス様は、聖書に「書いてある」真の救い主の姿に、弟子たちの目を向けさせようとしておられたのでした。そして、ご自分こそがその苦しみを受ける救い主であることを示されていたのでした。
 イエス様が三人の弟子たちに、「変貌山」での出来事について、誰にも話してはならないと命じられたのは、「人の子が死人の中からよみがえる時まで」でした。これは、逆に言うと、十字架の死と復活の後には、大いに話しても良いということを意味しています。イエス様は、十字架の死と復活の後には、ご自分の栄光について、「大いに話しなさい」と言っておられることになるわけです。なぜなら、弟子たちもまた、十字架の死と復活の出来事を経た後には、救い主であるイエス様の栄光について知る道が開かれるからです。十字架の死と復活において現れる救い主イエス様の栄光を知る道が開かれるからです。
 後に弟子たちによって伝えられたイエス様の栄光を、十字架の死と復活において明らかにされた救い主イエス様の栄光を見つめたいと思います。そうして、その救い主イエス様の栄光を大いに証ししていきたいと思います。

 

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