礼拝説教から 2018年1月28日

2018年1月28日
マルコの福音書8章34節-9章1節
イエス様の後ろに従う
 自分のいのちを救おうと思う者はそれを失い、わたしと福音のためにいのちを失う者は、それを救うのです。人は、たとえ全世界を手に入れても、自分のいのちを失ったら、何の益があるでしょうか。自分のいのちを買い戻すのに、人はいったい何を指し出せばよいのでしょうか。(マルコの福音書8章35-37節)
 イエス様は「人は、たとえ全世界を手に入れても、自分のいのちを失ったら、何の益があるでしょうか。」と言われました。
 イエス様は私たちのいのちと全世界とを比べておられます。そして、驚くべきことに、私たちのいのちは全世界よりも価値があると言われています。ちっぽけな私たちのいのちが全世界よりも大切だと言われているのです。
 また、イエス様は「自分のいのちを買い戻すのに、人はいったい何を指し出せばよいのでしょうか。」と言われました。
 私たちは、自分の持っているどのようなものを指し出したとしても、仮に全世界を指し出したとしても、一度他人のものになった自分のいのちを買い戻すことができません。それほどに、私たちのいのちは価値があり尊いということです。どのようなものとも代えることができないほどに、価値があり尊いといううことです。大切だということです。
 私たちは自分のいのちの大切さをどれだけ分かっているでしょうか。他人のいのちの大切さをどれだけ分かっているでしょうか。私たちのいのちが全世界よりも価値のあるものであり、大切なものであることを、どのようなものとも代えることのできない、かけがえのないものであることを、どれだけ分かっているでしょうか。
 私たち自身よりも、私たちのいのちの大切さを知っておられ、私たちのいのちを大切に思っていてくださる方は、ご自分のいのちを指し出してくださいました。十字架にかかって、ご自分のいのちを指し出してくださいました。この世界のどのようなものによっても買い戻すことのできない私たちのいのちを、ご自分のいのちと引き換えに買い戻してくださいました。
 イエス様が願っておられること、それは私たちがいのちを得ることです。自分で自分のいのちを守ろうとして、逆にいのちを失ってしまうのではなく、イエス様のいのちを得ることです。そしてそのために、イエス様はご自分の弟子として招かれた私たち一人一人に、自分を捨て、自分の十字架を負って、ご自分に従って来ることを求められたのです。
 イエス様よりも前を歩いて、イエス様の十字架を見失ってしまうのではなく、イエス様の後ろを歩きながら、自分のいのちがイエス様の十字架の死と復活によって与えられたものであり、支えられているものであることを覚えたいと思います。そうして、その十字架の恵みを見つめ、証ししていくことができればと思います。

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