礼拝説教から 2017年12月10日

2017年12月10日
ルカの福音書1章26-38節
マリヤへの受胎告知
 御使いは入って来ると、マリアに言った。「おめでとう、恵まれた方。主があなたとともにおられます。」(ルカの福音書1章28節)
 御使いはマリアに対して「おめでとう。」と言いました。それは、神様がマリアとともにおられるからであり、そのために、マリアが恵まれた方だからだということになります。
 私たちはクリスマスの時に「メリー・クリスマス」と言います。あるいは、「クリスマス、おめでとう。」と言います。
 それは、この世界に来てくださったイエス様に対して、私たちが祝福のことばを述べているのではありません。イエス様に何か良いことがあって、そのイエス様に私たちが祝福のことばを述べているのではありません。そうではなくて、イエス様がこの世界に来てくださった、その「良い知らせ」のゆえに、「喜びの知らせ」のゆえに、互いに「おめでとう」と言って、祝福のことばを交わしているのです。
 クリスマス、それはイエス様が祝福の源として来てくださった出来事だと言えるでしょう。
 私たちはどれだけ「おめでとう」と言っているでしょうか。どれだけ「おめでとう」ということばをかけてもらっているでしょうか。もしかしたら、新年に「あけましておめでとう」と言って、それで終わりということはないでしょうか。そうだとすると、少し寂しい感じがします。
 私たちの人生というのは、もしかしたら、いつも「おめでとう」と言えるような時ばかりではないのかも知れません。むしろ、「おめでとう」どころか、何とかして慰めてあげなければならない、何とかして慰めてもらわなければならないようなことの方が多いのかも知れません。
 私たちが、人と人との関係の中だけに閉じこもっている時、「おめでとう」と言い合える根拠は、私たち自身が作り出さなければなりません。「おめでとう」の前提には、世間で認められる具体的な成果が必要なのです。そして、私たちはこの成果を自分自身の手で作り出さなければなりません。逆に言えば、特に何も成し得るものがなければ、私たちは誰からも「おめでとう」と言ってもらうことができないということです。
 しかし、イエス様が私たちの関係の真ん中にいてくださる時はどうでしょうか。私たちは特に何も成し得ないかも知れません。「おめでとう」と言ってもらえるようなことは、何もできないかも知れません。
 しかし、イエス様が来てくださったことによって、イエス様が私たちの真ん中にいてくださることによって、私たちはいつでも互いに「おめでとう」と言い合えることができるようになりました。互いに祝福することができるようになりました。イエス様のいのちをいただいて、イエス様に愛されて、イエス様に支えられて、イエス様によって新しく生かされる道が開かれていることを、互いに知らせ合うことができるようになりました。
 アドベントのこの時、祝福の源として来てくださったイエス様を覚えたいと思います。そうして、イエス様のゆえに、互いに「おめでとう」と言い合うことのできる恵みを味わいたいと思います。

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