礼拝説教から 2017年12月17日

2017年12月17日
マタイの福音書1章18-25節
ヨセフへの受胎告知
 彼がこのことを思い巡らしていたところ、見よ、主の使いが夢に現れて言った。「ダビデの子ヨセフよ、恐れずにマリアをあなたの妻として迎えなさい。その胎に宿っている子は聖霊によるのです。マリアは男の子を産みます。その名をイエスとつけなさい。この方がご自分の民をその罪からお救いになるのです。」(マタイの福音書1章20-21節)
 ヨセフがマリアの妊娠のことで深い悩みと葛藤の中にあった時、主の使いがヨセフの夢の中に現れて、マリアの妊娠の真相を告げました。それは、マリアの妊娠が、聖霊によるものだということでした。マリアの妊娠は、どこの誰だか分からない男性との誤った関係によるものではなく、聖霊によるものだということでした。
 そして、主の使いはヨセフに対して、恐れないでマリアを妻として迎えるように命じ、生まれてくる子どもに「イエス」という名前を付けるように命じました。
 当時のユダヤ人の社会では、子どもに名前を付けるというのは、その子どもを自分の子どもとして認めるということを意味していたそうです。つまり、ヨセフが主の使いから命じられたことというのは、聖霊によって生まれてくる子どもを自分の子どもとして認めることだということです。ヨセフがイエス様に対して親としての責任を持つ立場に身を置くということです。イエス様に対して、いつでも傍観者的な態度を取ることのできる立場に身を置くのではなく、イエス様との関係において、決して逃げることのできない立場に身を置くということです。
 そして、ヨセフはこの主の使いから命じられたことに、そのまま従いました。
 ヨセフにも自分の思い描く結婚生活というものがあったのだと思います。ガリラヤ地方のナザレという田舎の小さな村で大工として働く身ですから、決して大きな野望を抱いていたわけではないでしょう。何かロマンチックな新婚生活を思い描いていたわけでもないでしょう。それでも、ささやかで平凡な暮らしではあっても、愛するマリアとの新婚生活に期待をしていたのではないかと思います。
 しかし、イエス様を自分の子どもとして迎え入れたヨセフの結婚生活は、その始まりから、人々の誤解や好奇心に満ちた噂話や眼差しに耐えていかなければならないようなものでした。外国の見知らぬ土地であるエジプトにまで逃げなければならないようなこともありました。後にマリアとの間に子どもを授かりはしましたが、自分自身の生涯は早くに閉じられたようです。それは、ヨセフ自身が思い描いていたような人生や結婚生活とは違ったのかも知れません。
 ヨセフにとってのクリスマス、それは、自分の身をイエス様に対して責任のある立場に置くということを意味していました。それは、クリスマスによって、イエス様の誕生によって、自分の人生が変えらえることを、受け入れ続けていくということでした。イエス様を中心とした人生に変えられることを、受け入れ続けていくということでした。
 ヨセフの結婚生活や人生は、人間的な目から見ると、幸せなものだったと言えるのかどうか分かりません。しかし、それは、イエス様の父として、救い主の父として、大いに用いられた結婚生活であり人生でした。ともにいてくださる神様の恵みに与り続けた人生でした。祝福に満ちた人生でした。
 クリスマスを迎える、それは、私たちの身をイエス様に対して責任のある立場に置くということです。それは、お生まれになったイエス様との関係の中で、自分の人生が変えられることを、受け入れ続けていくということです。イエス様を中心とした人生に変えられることを、受け入れ続けていくということです。
 私たちはどこに身を置いているでしょうか。
 アドベントのこの時、いつでも傍観者的な立場を取ることのできる立場ではなく、改めて責任のある立場に身を置きたいと思います。そうして、クリスマスの喜びに与ることができれば幸いです。

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