礼拝説教から 2017年12月3日

2017年12月3日
ヨハネの福音書1章1-18節
すべての人を照らすまことの光
 光は闇の中に輝いている。闇はこれに打ち勝たなかった。/すべての人を照らすそのまことの光が、世に来ようとしていた。(ヨハネの福音書1章5、9節)
 イエス様はみずから、「わたしは世の光です。」(ヨハネ8:12)と言われました。この「世の光」であるイエス様について、ヨハネの福音書の冒頭部分では、「光は闇の中に輝いている。闇はこれに打ち勝たなかった。」と記されています。
 光は闇の中でこそ輝きます。光は、闇が深いから、輝きを放てなくなるのではなく、闇が深いからこそ、闇が深ければ深いほどに、輝きを放ちます。
 マタイの福音書とルカの福音書に記されたクリスマスの物語、そこに描かれている一連の出来事は夜の時間に起こっています。クリスマスの物語の舞台は、明るい昼の時間に設定されているのではなく、暗い夜の時間に設定されています。
 つまり、イエス様の誕生、イエス様がこの世界に来られたことというのは、暗い時間に起こった出来事だったということになります。まさに、闇の中に光が輝く出来事だったと言えるでしょう。
 そして、その闇というのは、単に視覚的な意味で暗いということだけではないのでしょう。人々の心や社会全体の雰囲気を包んでいる暗い陰のようなものをも意味しているのだと思います。
 クリスマスは単なる喜ばしい出来事ではありません。それは闇を前提とした出来事です。私たちが闇の中にあることを前提とした出来事です。闇を前提としているからこそ、そこに照らされる光に、私たちが喜び、感謝し、祝うことのできる出来事です。
 あくまでも視覚的な意味においてですが、一年の中で最も暗いアドベントの時期だからこそ、光として来てくださったイエス様の恵みをより深く味わいたいと思います。
 また、ヨハネの福音書の冒頭には、イエス様について、「すべての人を照らすまことの光」と記されています。
 「まことの光」と言うからには、「まことではない光」がなければなりません。「まことの光」は「まことではない光」を前提としていることになります。私たちの世界は、闇に包まれているだけではなく、「まことではない光」があるということです。
 人間は闇の中を生きることができません。だからこそ、その闇に光を灯してきたのだと思います。もしかしたら、人間の歴史には、闇の中に光を灯そうとする努力の歴史、闇に打ち勝とうとする努力の歴史というような側面があったと言えるのかも知れません。
 現在の私たちは、夜の間もずっと光を灯し続けることができます。そうして、食事をしたり、遅くまで遊んだり、仕事を続けたりすることができます。まるで、夜の闇に打ち勝ったかのようです。
 しかし、どうなのでしょうか。夜の闇を照らし続けることのできる光を持っているからと言って、それで私たちは闇に勝った、闇を支配したと言えるのでしょうか。そうではないのだと思います。
 私たちの世界を包んでいる闇の深さ、それは私たちの想像をはるかに超えたものです。私たちがどんなに大きな光を作り出したとしても、どんなに強い光を作り出したとしても、どんなに温かい光を作り出したとしても、それで世界を包むすべての闇を照らしきることができるわけではありません。闇の中にあるすべての人が照らされるわけではありません。それはあくまでも、人工の光に過ぎないものであり、「まことではない光」に過ぎないからです。
 大切なことは何でしょうか。それは、私たちが「まことではない光」によって、世界の闇を照らすことではありません。そうではなくて、「まことの光」に照らされることです。「まことではない光」を消して、世界中が「まことの光」に照らされることです。闇の中にあるすべての人が、「まことの光」に照らされることです。私たちの内側にある闇が、私たちの間にある闇が、「まことの光」に照らされることです。
 二千年前、ユダヤのベツレヘムという町で、「すべての人を照らすまことの光」であるイエス様がお生まれになりました。それは、世界が闇に包まれているからでした。そして、闇の中にある私たち一人一人が光の中を歩むためでした。
 このイエス様に「まことの光」を見たいと思います。私たちの世界に来てくださったイエス様との出会いの中で、「まことの光」に照らされたいと思います。世界中が「まことの光」に照らされることを願います。

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