礼拝説教から 2017年11月26日

2017年11月26日
マルコの福音書7章31-37節
「エパタ」、耳を開かれるイエス様
 そこで、イエスはその人だけを群衆の中から連れ出し、ご自分の指を彼の両耳に入れ、それから唾を付けてその舌にさわられた。そして天を見上げ、深く息をして、その人に「エパタ」、すなわち「開け」と言われた。(マルコの福音書7章33-34節)
 マルコの福音書は、四つの福音書の中で最も分量が少なく、その記述も簡潔です。しかし、イエス様が「デカポリス地方を通りぬけて、ガリラヤ湖に来られた」所で出会った「耳がきこえず口のきけない人」の癒しについては、比較的詳しく記されています。この癒しの出来事の中から、いくつかのことを見てみたいと思います。
 まず、人々は「耳が聞こえず口のきけない人」を連れて来て、彼の上に手を置いてくださいと、イエス様に懇願しましたが、イエス様はこの「耳が聞こえず口のきけない人」だけを群衆の中から連れ出されました。
 「耳がきこえず口のきけない人」を連れて来た人々は、彼の問題が解決されることを願う一方で、イエス様のなされる奇跡を、自分の目で見たいと願っていたのではないかと想像します。手を置いただけで、耳を聞こえさせ、口を開かせるイエス様の奇跡を見たかったのではないでしょうか。
 しかし、人々の思いがどうであれ、イエス様は「耳が聞こえず口のきけない人」だけを連れ出して、人の目が気にならない所で、一対一になることのできる所で、癒しの奇跡を行われました。
 私たちはここから何を見ることができるでしょうか。その一つは、イエス様の奇跡というのは、多くの人々をあっと驚かせて注目を集めるためのものではないということです。
 むしろ、イエス様が願われたのは、奇跡的な力によって、病気を治したり、悪霊を追い出したりして、注目を集めることではなく、人々がイエス様の奇跡を体験する中で、イエス様との一対一の関係に入ってくることなのではないでしょうか。私たちが、問題が解決されたらそれでおしまいというのではなく、問題のあるなしを越えて、イエス様と一対一の関係を持ち、その関係の中で生かされていくことではないでしょうか。
 次に、イエス様は人々の願いに従って、単に「耳が聞こえず口のきけない人」の上に手を置かれただけではありませんでした。両耳に指を入れ、唾を付けて舌に触られました。そして、天を見上げて、深く息をして、「エパタ」と言われました。
 「天を見上げる」ということばは、いわゆる「五千人の給食」の出来事にも出てきました。その時は、「天を見上げて神をほめたたえ」(マルコ6:41)て、人々にパンと魚が分かち合われました。「五千人の給食」の出来事は、天の父なる神様との関係の中で行われました。そこには天からの祝福がありました。
 しかし、「耳が聞こえず口のきけない人」の癒しにおいては、イエス様は天を見上げて、深く息をされました。
 ここで「深く息をして」と訳されていることばは、ローマ人への手紙8章のいくつかの箇所で、「うめく(うめき)」と訳されていることばと同じだそうです。ローマ人への手紙8章26節を見てみます。<同じように御霊も、弱い私たちを助けてくださいます。私たちは、何をどう祈ったらよいか分からないのですが、御霊ご自身が、ことばにならないうめきをもって、とりなしてくださるのです。> 
 私たちクリスチャンは神様に祈ることができます。これは大きな特権です。しかし、私たちはしばしば、どのように祈ったらよいのか、分からなくなることがあります。とてもつもなく大きな課題や問題の前で、どう祈ったら良いのか分からない、祈ることができないということを経験します。ただ苦しそうに「うめく」ことしかできないのです。そして、そんな時にともにうめき、祈っていてくださるのが聖霊です。
 イエス様は、「耳が聞こえず口のきけない人」のために、この「ことばにならないうめき」のような深い息をつかれました。イエス様は、「耳がきこえず口のきけない人」とともにうめき、その苦しみをともにされたのです。
 イエス様の癒し、それは自分の力を見せびらかすようなものではありませんでした。いつでも気軽に簡単に行えるようなものでもありませんでした。そうではなくて、癒しを必要としている人々の、どうすることもできない苦しみのうめきに共感し、その苦しみをご自分の身に引き受けるようなものだったと言えるでしょう。私たちの罪を十字架の上でご自分の身に引き受けられたように、私たちの痛みや苦しみをご自分の身に引き受けるようなものでした。それは、深い愛に根ざしていなければ、できないものでした。
 最後に、イエス様は、「耳が聞こえず口のきけない人」に対して「エパタ」と言われました。「開け」と言われました。
 「開け」と言われたからには、「開かれていない」ということが前提になっていなければなりません。イエス様は「耳がきこえず口のきけない人」の耳が開かれていなかったために、「開け」と言われたことになります。そして、このイエス様の「開け」ということばによって、「耳が聞こえず口のきけない人」の耳は開かれ、舌のもつれが解かれました。
 それは、ただ単に、耳の病気なり障碍なりが癒されたということではないのだと思います。もっと根本的な所で、健全な耳を取り戻してくださったということを意味しているのではないでしょうか。聞くべきことばを聞くことのできる、健全な耳を取り戻してくださったということではないでしょうか。
 大切なことは、耳が開かれていることです。イエス様に耳を開いていただくことです。それは、身体的に健康な耳を持たなければならないということではありません。そうではなくて、よく聞こえるにしろ、少し遠くなっているにしろ、あるいはまったく聞こえないにしろ、耳が開かれていなければならないということです。開かれた健全な耳によって、私たちを生かす神様のいのちのことばを聞かなければならないということです。十字架の愛のことばを聞かなければならないということです。
 私たちは自分で自分の耳を開くことができません。しかし、イエス様が開いてくださいます。「開け」と語ってくださり、耳を開いてくださいます。私たちを生かす、神様のいのちのことばを聞く健全な耳を取り戻してくださいます。
 イエス様との一対一の関係の中で、十字架の前で、私たちの耳が開かれることを願います。与えられた健全な耳によって、神様のいのちのことばを聞き続けていきたいと思います。そうして、そのいのちのことばに養われ生かされていきたいと思います。

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