礼拝説教から 2017年11月12日

2017年11月12日
マルコの福音書7章14-23節
心の刷新
 外から入って、人を汚すことのできるものは何もありません。人の中から出て来るものが、人を汚すのです。」(マルコの福音書7章15節)
 ユダヤ人たちは、「外からのもの」が人を汚すのだと考えたようです。そのために、外側に気を使いました。入念に自分の手を洗い、時には体全体を洗い、また杯や水差し、銅器や寝台などを洗いました。汚れていると考えられる人や物との接触を避け、万一のために、きれいに洗って、自分をきよく保とうとしたのです。それが神様の民としてのふさわしいあり方であると考えました。
 しかし、イエス様が言われたことは何でしょうか。それは、外から入って、人を汚すことのできるものは何もないということでした。そして、人の中から出て来るものが人を汚すのだと、イエス様は言われました。汚れの源は、外側にあるのではなく、心の内側にあったのです。
 私たちはどうすればいいのでしょうか。心の中を洗えばいいのでしょうか。イエス様は「心の中を洗いなさい」と言われているのでしょうか。
 私たちは外側を洗うことはできるかも知れません。しかし、心の中を洗うことはできません。手であれば、石鹸を使って洗うことができるでしょう。食器であれば、洗剤を使って洗うことができます。しかし、心の中を洗うことはできません。どのような石鹸や洗剤を使っても、洗うことができないのです。洗ったと思った尻から、悪い考えが湧いて出て来るのではないでしょうか。
 無理に自分で努力して、心の中を洗おうとするなら、それはパリサイ人や律法学者がしていることと、何ら変わりがないと言えるのかも知れません。
 必要なことは何でしょうか。それは、私たちが自分で努力して、心の中を洗うことではありません。そうではなくて、イエス様に心の王座を明け渡すことです。イエス様が十字架にかかってくださったのは、罪人の自分を愛し救うためだったんだということを信じて、イエス様が十字架の上で流されたその血潮によって、罪が赦されて、心が完全に新しくされることです。いつも十字架の愛によるイエス様のご支配を受け入れ続けていくことです。
 自分で努力をして、心の中を洗い続けていこうとするのではなく、イエス様の十字架の血潮によって完全に新しくされた者として、十字架の愛によるイエス様のご支配を受け入れ続けていきたいと思います。

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