礼拝説教から 2017年11月19日

2017年11月19日
マルコの福音書7章24-30節
食卓の下の子犬でも
 彼女は答えた。「主よ。食卓の下の子犬でも、子どもたちのパン屑はいただきます。」(マルコの福音書7章28節)
 イエス様はツロの地方へ行かれました。外国人の土地です。イエス様がどうしてツロの地方へ行かれたのか、その正確な理由は分かりません。「家に入って、だれにも知られたくないと思っておられたが」(24)と記されていることからすると、福音を告げ知らせたり、病人を癒したり、悪霊を追い出したりというようなことが目的ではなかったのかも知れません。
 そのイエス様の所に、ギリシア人の女性が来て、足もとにひれ伏しました。そして、汚れた霊につかれている自分の幼い娘を助けてほしいと願いました。
 ギリシア人である女性とユダヤ人であるイエス様の間には、いくつもの壁があったかも知れません。しかし、女性は自分の娘を助けたい一心だったのでしょうか、「イエス様だったら」という希望を抱いて、イエス様の所に助けを求めて来たのでした。
 しかし、そのギリシア人の女性に対して、イエス様は言われました。「まず子どもたちを満腹にさせなければなりません。子どもたちのパンを取り上げて、子犬に投げてやるのは良くないことです。」
 ここで、「子どもたち」というのは、ユダヤ人たちのこと、子犬というのは、外国人たちのことになるでしょう。イエス様は、「まず子どもたちであるユダヤ人たちの腹を満たしてやらなければならないから、そのためのパンを取り上げて、子犬の外国人たちに投げてやるのは良くない」ということを言って、ギリシア人女性の願いを退けられました。イエス様は、ギリシア人女性のことを子犬扱いして、その願いを退けられたのです。何だか、イエス様らしくない対応だなぁということを思います。
 ギリシア人の女性はどうしたでしょうか。怒って帰ったでしょうか。がっかりして帰ったでしょうか。そのどちらでもありませんでした。何と、自分を子犬扱いするイエス様のことばを、そのまま受け入れたのです。自分を子犬扱いするイエス様のことばをそのまま受け入れて、その上で、食卓の下の子犬として、子どもたちのパンのおこぼれに与りたいと言うのです。
 私たちはギリシア人女性のこのことばから、何を見ることができるでしょうか。そのことの一つは、この女性が自分の立場というものを、よく弁えていたということなのではないかと思います。「自分は恵みを受ける資格のない者である」ということを、「自分は恵みを当然の権利として要求することのできない者である」ということを、よく弁えていたということなのではないかと思います。そのような意味で、子犬扱いをされても仕方のない者であることをよく弁えていたということなのではないかと思います。
 恵みとは何でしょうか。それは受ける資格のない者に対して与えられるものです。神様からの恵み、それは受ける資格のない者に対して与えられる、神様からの愛の贈り物です。神様に対して何か貢献をした、神様にほめられるようなことをした、そのことに対する報酬や褒美として与えられるようなものとは異なります。権利として要求をして、与えられるものとは異なります。そうではなくて、何かを要求することのできるような資格や権利は何もない、けれども、そのような者に対して与えられる、神様からの愛の贈り物です。神様の恵みは、文字通りに恵みとして与えられるものだということです。
 ギリシア人の女性は、自分が恵みを受け取る資格のない者であることを、よく分かっていたようです。自分が何かを要求することのできる者ではないことを、よく分かっていたようです。
 しかし、ギリシア人の女性は、それで諦めたわけではありませんでした。何と恵みのおこぼれに与ることを願ったのです。「主よ。食卓の下の子犬でも、子どもたちのパン屑はいただきます。」
 当時のユダヤ人社会では、外国人は「犬」と呼ばれていたようです。もちろん、そこには軽蔑の意味が込められていたでしょう。しかし、イエス様はギリシア人女性のことを、「犬」とは呼ばれませんでした。「子犬」と呼ばれました。これは、家でかわいがられている飼い犬のことになります。
 家でかわいがられている飼い犬の子犬であれば、事情は異なってきます。子犬もまた、子どもたちと同じ主人から養われるものです。もしかしたら、ギリシア人の女性は、イエス様の「子犬」ということばから、「子犬」である自分にもおこぼれとして与る恵みがあることを期待したのかも知れません。恵みに与る余地のあることを期待したのかも知れません。女性はその恵みのおこぼれをイエス様に願ったわけです。そして、イエス様もその願いを退けることはなさいませんでした。女性は、自分の娘の救いを、恵みとして受け取ったのです。
 私たちは神様からの恵みを受ける資格のない罪人です。自ら神のようになろうとして、私たちとの互いに愛し合う関係を深めていきたいと願っておられる神様を否定した罪人です。そうしてイエス様を十字架につけた罪人です。神様に権利として何かを要求することのできない罪人です。
 御子イエス様が、この世界に来てくださり、十字架にかかってくださったのは、神様に対して罪を犯した私たち一人一人に対する神様からの愛の贈り物です。恵みとして与えられたものです。
 何か権利があるかのように、神様にあれこれと要求をするのではなくて、御子イエス様の恵みを謙遜に感謝して受け取りたいと思います。受け取り続けたいと思います。そうして受け取った恵みの大きさにより深く気づくことができればと思います。

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